入江たか子
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入江たか子(いりえたかこ、本名・東坊城英子、1911年2月7日-1995年1月12日)は、明治から昭和期の日本の映画女優。華族出身のノーブルな美貌と近代的なプロポーションによって大スターとなり、「銀幕の女王」「ミス・ニッポン」などと称えられた。第二次大戦前・戦中の男性俳優にとって、彼女と共演することは役者冥利に尽きる最高の栄誉だったという。家族の不幸や自身の病気により戦後は人気が下降し、怪談映画の「化け猫女優」としてもてはやされた。山田五十鈴・原節子とともに日本映画史上の三大美人だという(高峰秀子著『私の渡世日記』による)。
[編集] 略歴
東京市四谷区(現・新宿区)に生まれる。子爵東坊城家の出身で父の徳長は子爵、貴族院議員。1922年、その父が亡くなり生活に困窮するも文化学院中学部に入学。油絵を習っていたが、関東大震災で家は半壊し、手放さなければならなくなった。
1927年、文化学院を卒業後、日活京都撮影所の俳優で兄の恭長(後に監督)を頼って京都に移る。同年、兄の友人で「エラン・ヴィタール小劇場」の主宰者野淵昶に請われて女優として新劇の舞台に立つ。それを観た内田吐夢の目に留まり、その勧めに従い同年、日活に入社。内田監督の『けちんぼ長者』で映画デビュー。その後、村田実の『激流』、内田の『生ける人形』、溝口健二の『東京行進曲』などに主演し、たちまち、日活現代劇人気ナンバー1女優の地位につく。また、1931年には、伊丹万作脚本、稲垣浩監督の『元禄十三年』で片岡千恵蔵と共演し、時代劇初出演も果たした。このとき、千恵蔵に恋心を抱いていたことを後年告白している。
1932年、新興キネマと提携して入江プロダクションを創立した。当時、阪東妻三郎など俳優が次々と独立プロを作っていたが、現代劇の独立プロは「入江プロ」だけだった。この時代、入江たか子は日本映画界最高の位置にあった。その第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』だった。この作品は満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。
この後、日活の俳優、田村道美と結婚。これが原因で、兄の恭長と袂を分かつ。
1933年、泉鏡花の名作、『滝の白糸』をまた溝口監督で撮り、大好評となる。溝口は一女優の入江プロダクション作品ということに屈辱を感じていたため、強引に実体のない名前だけの「溝口プロダクション」という名前をその横に列記させてもらい体面を保っていた。
続いて、高原療養所の美貌の看護婦を演じた、久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。1935年(昭和10年)頃は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂ブロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代であった。しかし、1936年に吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』のヒットを限りに「入江プロダクション」は解散する。
以後、東宝と契約を結び、長谷川一夫の東宝入社記念映画『藤十郎の恋』などに出演し、人気を保つ。しかし、戦時下に相次ぐ兄3人の死に直面し、仕事に対する情熱も冷めかけた。
戦後は、病気がちになり、それに輪をかけるように主役の仕事も減っていった。1950年には、「バセドー氏病」の宣告を受け、無理に仕事をしながら入院費を工面し、ようやくのことで1951年末になり、大手術を受け命だけは取り留める。
退院後は、仕事をとることもままならなかったが、大映と年間4本の契約を結ぶ。その大映に戦前鈴木澄子主演であてた「化け猫映画」のリメークの企画が持ち上がり、その主役の話が持ち込まれた。大スターの面子もありためらったが、生活のためと割り切り引き受ける。1953年『怪談佐賀屋敷』に主演する。この映画が大当たりし、次々と化け猫役が舞い込み、「化け猫女優」のレッテルを貼られる。
更に、1955年、溝口監督の『楊貴妃』に出演。入江プロダクションの一件で入江に反感を持っていた溝口は、入江の演技に執拗な駄目出しをした上、「そんな演技だから化け猫映画にしか出られないんだよ」とスタッフ一同の面前で口汚く罵倒するという仕返しをしている。このため入江は役を降り、その後は女優として満足な役が与えられなくなった。
1959年、芸能界に見切りをつけ、銀座に「バー・いりえ」を開き、実業界に転進する。その後は、娘の女優、入江若葉の夫の店である有楽町のトンカツ店を手伝いながら余生を過ごした。その間、黒澤明の『椿三十郎』、市川崑の『病院坂の首縊りの家』、大林宣彦の『時をかける少女』に請われて出演し、話題となった。