日産・ブルーバード
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最大のライバルはトヨタ・コロナ。コロナとブルーバードが繰り広げた熾烈な販売競争は「BC戦争」といわれた。日本の代表的な大衆車として、またタクシー用の車種としても親しまれた。戦前から続く、ダットサン乗用車の系譜を引き継いでいる。
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[編集] 歴史
[編集] 前史(-1959年)
ブルーバードは、戦前の10型-17型、戦後のDA型、DB型、110型、210型(直列4気筒OHV C型 988cc搭載)などのダットサンブランドのセダンの系譜を引き継いでいる。
[編集] 初代(310型、1959年-1963年)
1959年8月発売。発売当初の名称は「ダットサン・ブルーバード」であった。キャッチコピーは「幸せを運ぶ青い鳥」。
ボディはセミモノコックボディとラダーフレームの組合せで、4ドアセダンと1960年7月に追加されたワゴンが存在した。テールランプの形状から、「柿の種」(但し、前期型)との愛称があった。乗車定員は当初4名であったが、1959年10月に座席寸法を変更して5名となった。
エンジンは当初C型1000cc34馬力とE型1200cc55馬力であったが、後に出力向上される。足回りは、フロントはダブルウィッシュボーン・コイルスプリング、リアは半楕円リーフスプリング式であった。
グレード構成は、1000はSTD、1200はSTDとDXで、1960年7月に国産車初のエステートワゴンの設定、1961年2月に史上初の女性仕様車である1200ファンシーDXが追加された。
1960年10月のマイナーチェンジでエンジンがC1型1000cc43馬力、E1型1200cc55馬力に変更され、311型となった。この変更でトランスミッションがフルシンクロメッシュとなった。
1961年8月のマイナーチェンジでフロントグリル、テールランプ、メーターパネルの意匠が変更され、312型となった。この型よりトランクリッドの開閉がそれまでのプッシュボタン式からキー操作で開き、閉じるとロックされる構造になった。1962年4月にはサキソマットのオートクラッチの設定が追加された。 1962年9月のマイナーチェンジでもフロントグリル、テールランプの意匠、フロントスタビライザーが変更された。1962年12月にはフロントシートにセパレートシートが選べるようになった。
ファンシーDXは史上初の女性仕様車であり、ウインカー操作時に鳴るオルゴール、カーテン、バイザー組み込みの化粧セット、傘立て、ハイヒール立てなど36点もの専用装備がなされていた。また、車体塗色は2トーンであった。
- サファリラリー
- 1963年に2台で参戦したが、完走とはならなかった。
[編集] 2代目(410型、1963年-1967年)
1963年9月発売。 ブルーバードの伝統であるSSS(スリーエスと読む。スーパースポーツセダンの略)が設定された初めてのモデルである。日産初のモノコック構造の車体を採用し、デザインはピニンファリーナに委託するが日本国内では「尻下がり」とか「ブタのケツ」と言われ不評を買い、販売台数で初めてコロナにリードを許す。310型までの北米のみならず、欧州へも輸出され、宣伝でも「世界の恋人・ブルーバード」と謳っていた。
ボディは4ドアセダン、ワゴンが設定され、後に2ドアセダンとバンが追加された。
エンジンは当初C型1000cc45馬力とE型1200cc55馬力であったが、後に1000ccは廃止、1200ccはJ型1300cc62馬力に変更、SSS用にR型1600cc90馬力も追加された。足回りは、フロントはダブルウィッシュボーン・コイルスプリング、リアは半楕円リーフスプリングであった。トランスミッションは310以来のフルシンクロの3段ミッションであったが、1200ccにはサキソマットのオートクラッチの設定もあった。1966年6月にはボルグワーナー製の3速オートマチックも設定されている。電装系では310型までの直流発電機(ダイナモ)から交流発電機(オルタネーター)に変更されている。
グレード構成は、1000はSTD、1200はSTDとDX、女性仕様車のファンシーDX、エステートワゴンで、後に1200SS、1600SSS、1300バンが追加された。
1964年3月 ブルーバード初のスポーツモデルとなる「1200SS(スポーツセダン)」が追加。E型1200ccにSUツインキャブ付きの65馬力のエンジンが搭載された。
1964年9月 マイナーチェンジでフロントグリルの意匠が変更。1000ccモデルが廃止され、2ドアセダンが追加。
1965年1月 リクライニングシート付き追加。
1965年2月 「2ドア1200SS」追加。
1965年3月 「第4回ナショナルストックカーレース」(於;川口オートレース場ダートコース)スポーツマンクラスにて「1200SS」が優勝を飾る。ドライバーは長谷見昌弘。
1965年5月 マイナーチェンジで1200ccモデルは1300ccに変更となり、電装系はマイナスアースに変更され、411型となった。「1600SSS」が追加。「1600SSS」はSUツインキャブ付き90馬力のエンジン、ポルシェシンクロの4段ミッションが装備された。
1966年 メキシコ日産のクエルナバカ工場にて生産を開始。
1966年4月 マイナーチェンジで、評判の良くなかった尻下がりのボディ形状を改める大幅な変更を行った。この変更でテールランプが独特の形状であった通称「鍵テール」から平凡な形状に変更された。「1300SS」と「1600SSS」は「DX」とは異なるフロントグリルを持ち、前輪ディスクブレーキを装備した。
- サファリラリー
- 1964年は4台で、1965年は3台で参戦したが、いずれもリタイアとなった。
- 1966年4月 「第14回東アフリカサファリラリー」に4台の「1300SSS」(1299cc)で参戦。グリンリー/ダンク組が5位で完走し、クラス優勝を飾る。このときの記録がダットサンチームマネージャーの笠原剛造により「栄光の5000km」(後に「栄光への5000km」に改題)として出版されベストセラーとなり、後に石原裕次郎主演で映画化もされた(但し映画に登場するのは410型ではなく510型)。
- モンテカルロラリー
- 1965年は1台参戦、リタイア。1966年は1台参戦、総合59位、1967年は3台参戦、総合58位、2台リタイア。
[編集] 3代目(P510型、1967年-1971年)
ブルーバード史上最大のヒット作であり、かつ1960年代を代表する不朽の名車。いすゞベレットに刺激を受けた川又克二社長の鶴の一声により、吸収合併したプリンス自動車の技術を用いた日産初の四輪独立懸架(フロント:マクファーソン・ストラット、リア:セミトレーリングアーム)を採用し、新開発のSOHCエンジンや換気装置の強化による三角窓の廃止など、日産車にとって技術的ターニングポイントとなった車であり、本車は「技術の日産」を大いにアピールする存在となる。デザインも先代が不評であったことから、「スーパーソニックライン」と称するプリンス自動車の系譜を引いた直線的で彫りの深いシャープなデザインに変更。海外でも「プアマンズBMW」との評を得、史上初めて北米市場でヒットした日本車ともなった。
モータースポーツでも大活躍し、スポーツモデルのSSS(スリーエス)が、サファリラリーで総合優勝し「ラリーの日産」のイメージを確立。石原プロモーションがこれを描いた映画『栄光への5000km』も制作された。 ※英語版も参照のこと。
1967年8月 発売。
1968年10月 直列4気筒SOHC L16型(1595cc)搭載モデル「ダイナミックシリーズ」を追加。1ヵ月後には、コロナハードトップに対抗した2ドアクーペを同シリーズで発売した。
1970年9月 直列4気筒SOHC L18型(1770cc)搭載モデルを追加。
1970年 「第18回東アフリカサファリラリー」にて総合・チーム優勝の2冠達成。
[編集] 4代目(610型、1971年-1976年)
1971年8月発売。前モデルの510型よりも上級車格に移行する目的で車体は大型化され、車名が「ブルーバードU」とされた。従来のブルーバードの車格を埋めるため510型が1400・1600モデルのみ1972年11月まで継続生産され、1973年1月にバイオレット710型となる。610型にはタクシー仕様が設定されず(個人タクシーでは使用実績あり)、510型及びバイオレット710型にタクシー仕様車(5人乗り・コラムシフト・前席ベンチシート)が設定された。
ボディは4ドアセダン、2ドアハードトップ、ワゴン、バンの設定があった。セダン、ハードトップはサイドウインドウの形状に特徴があり、「Jライン」と称された。
エンジンはL型4気筒1600cc100馬力、105馬力(SUツインキャブ)、1800cc105馬力、115馬力(EGI)、後にL型6気筒2000cc115馬力、125馬力(SUツインキャブ)が追加された。 グレードは当初はSTD、DX、GL、SSS、SSS-E、SSS-Lが設定され、後に2000cc車にGT、GT-E、GT-X、GT-XEが設定された。グレード名のEはEGI(電子制御のガソリン噴射機構)搭載エンジン車を意味する。
1972年8月のマイナーチェンジで、EGI車の設定がそれまでの1800ccのみから1600ccにも拡大された。
1973年8月のマイナーチェンジでフロントグリル周辺、テールランプの意匠が変更された。L型6気筒2000ccを搭載する、ホイールベースを150mm、フロントオーバーハングを55mm延長したロングノーズの2000GTシリーズ(通称「ブルG」)が設定された。同時代のポンティアックを思わせる処理のフロントグリル周辺のデザインで、特にフェンダーのウインカー周辺の造形がサメのエラに似ていることから「サメブル」と呼ばれた。本来は小型車であるブルーバードに6気筒2000cc車が設定されていたのは、モーター店にはローレル、プリンス店にはスカイラインが存在するため、ブルーバードを販売する日産店にも同クラスの車種を設定するというディーラー政策上の理由であった。
1975年9月に2000EGI車が、10月に1600・1800・2000のキャブ仕様車が50年排気ガス規制(A-)に適合した。
1976年2月に2000EGI車が、3月に1600・1800EGI車が51年排気ガス規制(C-)に適合した。
モデルライフ途中でオイルショックを迎え石油製品の入手が困難となり、ホワイトリボン付きタイヤが確保できなくなったため、セールスマンがカタログのホワイトリボンタイヤを黒マジックで塗りつぶして配布したという逸話がある。
- サファリラリー
1972年に1台が参戦し、総合12位。1973年に2台が参戦し、総合2位・4位、チーム優勝であった。
[編集] 5代目(810型、1976年-1979年)
1976年7月発売。CMキャラクターは加山雄三(後にレパードのCMに出演)。オイルショックや排気ガス規制対応のため登場が遅くなり、販売テコ入れのため次モデル910型の登場が早まるなど、僅か3年4ヶ月の生産に留まった、悲運のモデルである。
ボディタイプはセダン、2ドアハードトップ、バンが存在し、歴代ブルーバードに存在したワゴンは設定が無かった(輸出用には存在)。グレード設定はSSS系、GL系と610型で設定されたロングノーズの6気筒2000ccモデルはG6シリーズとされた。また、610型では設定されなかったタクシー仕様車が復活した(余談だが、バイオレットのタクシー仕様車は810型登場後も、バイオレットのほうが価格が安いことなどから1977年4月頃まで生産・販売が継続されていた)。
エンジンは1600cc・1800ccモデルは51年排気ガス規制に適合したNAPS・4気筒のL型であったが、1800ccは1977年10月、1600ccは1978年8月に2プラグ方式のZ型に変更された。 2000ccモデルは最後までNAPS・L型6気筒(L20,L20E)であった。
足回りは、SSS系とG6シリーズはセミトレーリング式のリアサスペンションであったが、GL系はリーフスプリング(1977年10月4リンク式に変更)だった。
1978年8月のマイナーチェンジで811型(キャッチコピーは『ヘビーデューティーカー』)となり、全車53年排ガス規制をクリアした。同時に日産車では初の角型4灯ヘッドライトを採用した。また、ロングノーズで4気筒エンジン搭載のG4シリーズも設定された。
1979年3月に発売されたブルーバード20周年記念車のスピリット20ではブルーバード初のサンルーフが装着された。また、タクシーには3速フロアオートマチックが全モデルに設定され、同時にエンジンもZ18Pにリニューアルされて53年排ガス規制をクリア、車番がE-PJ811型に変更されている。
[編集] 6代目(910型、1979年-1983年)
1979年11月に発売され、27ヶ月連続小型車登録台数一位を記録するなど、510以来の大ヒットを飛ばした。上級グレードの6気筒モデルはブルーバードでは廃止され、レパードF30型に移行した。
ボディタイプはセダン、2ドアハードトップ、ワゴン(1979年12月追加)、バン(1979年12月追加)、4ドアハードトップ(1982年1月追加)が存在した。グレードはSSS系とエレガント系(GF・GL)が設定されていた。
エンジンは1600cc、1800ccモデルは前モデルの811型と同様の2プラグ方式のZ型4気筒(Z16型、Z18型)であったが、2000ccモデルは前モデルまでのL型6気筒(L20型)に代わって、4気筒のZ20型エンジン(当初はEGI仕様のみ、キャブ仕様は1981年1月に追加)が搭載され、全車4気筒エンジンに統一されている。これにより、910型では、610型、810型の6気筒エンジン車に存在していたロングノーズボディは設定されていない。(ただし、北米輸出専用モデルのL24搭載車にはロングノーズボディとして存在)
1982年10月のマイナーチェンジを機に、1600cc、1800cc(ターボエンジンを除く)は、Z型エンジンからCA型エンジンに変更されている。(2000cc、1800ccターボ、ディーゼル車は従来通り)
足回りは、FR車初めてのゼロスクラブにセッティングされたフロントサスペンションや、SSS系にはセミトレーリング式のリアサスペンション、エレガント系と後期型ワゴンとタクシーは4リンク式リアサスペンション、バンと前期型ワゴンはリーフスプリング式リアサスペンション、ステアリングはラック&ピニオン式が採用された。発売当時は510型の再来とも言われ、FRならではの走り重視に徹した高性能で好評を博した。
また、ブルーバード初のターボモデルが登場した型でもある。これは、セドリック/グロリアやスカイラインにもターボ搭載車が登場し、好評を得たため(特にスカイライン)、走りを重視する当該モデルにも打ってつけのアイテムであったためと推測される。
特記すべき装備品として、上級グレードに装備された、小さなレコード盤を内蔵したボイスワーニングや、最上級グレードのGタイプに設定されたドライブコンピュータや録音機能付きカセットデッキがあげられる。
CMキャラクターには、当時人気絶頂の歌手・俳優の沢田研二が起用され、派手なCMで好評を博し、キャッチコピーは「ブルーバード、おまえの時代だ」「ザ・スーパースター」であった。
1981年10月 オーストラリアで開催された耐久レース 「バサースト1000」に参戦。オーバーヒートによりリタイア。
1982年5月 当時のグループ5規定に合わせたレーシングカー「ブルーバード・ターボ」が登場。2ドアハードトップ(KY910型)をベースに車体の一部をパイプフレームとするノバ・エンジニアリング製のシャシーに、大型のフロントスポイラー、およびリアウイングを備えるムーンクラフト製のカウルをまとう。ドライバーはかつてS30型フェアレディZを操った柳田春人。
エンジンはサファリラリー等で活躍した「バイオレット」に搭載されていた直列4気筒DOHC LZ20B型(2082cc 570ps/7600rpm、55kgm/6400rpm)にエアリサーチ製T05Bターボチャージャー、およびルーカス製メカニカルインジェクションシステムを組合わせた。参戦初年度および1984年度はコカ・コーラが、1983年度はオートバックスがメインスポンサーを務めた。日産自動車の意向により、同様のレーシングカーが「スカイライン(KDR30型)」および「シルビア(KS110型)」でも製作され、それぞれ長谷見正弘、星野一義がドライブした。「スカイライン」のメインスポンサーはトミー、「シルビア」のメインスポンサーは日本ラヂヱーター(現;カルソニックカンセイ)であった。
- 1982年5月 「富士GCシリーズ第2戦 富士グラン250キロレース」3位入賞
- 1982年5月 「RRC筑波チャンピオンレース」SSクラス 2位入賞
- 1982年12月 「RRC筑波チャンピオンレース最終戦」SSクラス 2位入賞
- 1983年12月 「RRC筑波チャンピオンレース最終戦」SSクラス 優勝。
- 1983年 「富士スーパーシルエットチャンピオンシリーズ」 チャンピオン獲得
- 1984年12月 「筑波チャレンヂカップシリーズ第5戦」
1982年10月 前年に引続き「バサースト1000」に参戦。クラス優勝(総合8位)を飾る。
同月 一部変更。ターボ付以外の1600cc、1800ccエンジンをCA16型、CA18型に変更。
1983年3月 セダンの「1600/1800GL」、および「1800SSS-E」をベースとする「スーパーエクストラ」を追加。
1983年10月、ブルーバードは、FF(前輪駆動)化されたU11型にフルモデルチェンジされたが、営業車モデル(タクシー用)は、U11型にフルモデルチェンジせずそれまでの910型での継続生産となるが、理由として、U11型から採用されているFF(前輪駆動)では、これまでの910型まで採用されていたFR(後輪駆動)より、FF(前輪駆動)の構造上、最小回転半径が大きくなってしまい小回り性能で不利になってしまう事と、車両や部品の耐久性の面でFF(前輪駆動)よりもFR(後輪駆動)の方が信頼性が高い事などで、FF(前輪駆動)ではタクシー業界には歓迎されない事情があった事で、営業車モデル(タクシー用)のみ、別会社の日産車体に移管されて継続生産される事となり、リアサスペンションの耐久性向上の為に4リンク式からリーフスプリング式への変更、ステアリングの形状変更、SSS系と同一のフロントグリル(通称・ハニカムグリル)とリア・テールランプへの変更、エンブレムが日産創立50周年を機に一新された“NISSAN”ロゴと、U11型と同じ“BLUEBIRD”ロゴに一新されたりなど、一部改良及びマイナーチェンジを行いながら、1993年7月に、営業車モデル(タクシー用)として小回り性と耐久性に優れた、FR(後輪駆動)の小型タクシー専用車のクルーが発売されるまでの約14年間、910型の営業車モデル(タクシー用)は、長寿モデルとして継続生産され大変貴重な車種でもあった。
ちなみに、ブルーバードのライバル車種であるトヨタ・コロナも、営業車モデル(タクシー用)については、ブルーバードと同様にFRの最終型のままで継続生産されていた。
[編集] 7代目(U11型、1983年-1987年)
1983年10月 日米同時発売。前モデルの910型が人気・販売共に好調だった事から910型の流れを汲んだデザインが採用された。4ドアセダン、4ドアハードトップ、ワゴン、バンがラインナップされ、910型までラインナップされていた2ドアハードトップや、タクシー仕様車はラインナップされなくなった。このU11型より駆動方式はFF(前輪駆動)となり、以降の日産FF車の基となる。
ちなみに、7代目が発売された1983年は、日産設立50周年を機に米国のペンタグラム社が製作したロゴフォントに一新している。また、1981年7月、当時の石原俊社長の方針で、それまで展開していた「ダットサン」ブランドを廃止して「日産」ブランドに順次変更する事が発表され、日本国内で「ダットサン」ブランドとして販売されていたブルーバードは、U11型にフルモデルチェンジされたのを機に、それまでの正式車名であった「日産・ダットサン・ブルーバード」から「日産・ブルーバード」へと切り替えられ、車検証の車名欄も「ダットサン」から「日産」に切り替えられた。
U11前期型のCMキャラクターには、前モデルの910型のCMで好評を博した沢田研二が引続き起用された。キャッチコピーは、「ブルーバード、お前はスーパーゼネレーション」「世代を超えたフルチェンジ」「走りが断然素晴らしい」、後に「ブルーバードにならないか」「Be BLUEBIRD」であり、CMでは、沢田研二自身が派手な衣装を装いU11型ブルーバードのルーフ上でダンスするCM、ニューヨークの街中を素早い速度で走行しブルーバード伝統の走行性能の良さをアピールするCM、沢田研二の育ちの故郷である京都市内の町中を走行し周辺の人々の注目を集めているCMなど、前モデルの910型のCMと同様に注目を集めたCMであった。駆動方式がFRからFFに変更されても、ブルーバードの伝統である走行性能の良さを前面にアピールしていた。なお、CM曲の作曲は八神純子が担当していた。
なお、U11型が発売される以前に、FFである事を前面にCM展開し販売していた、バイオレットリベルタ(発売後2年足らずで廃止)、オースターJX(後期型からオースターに車名変更)、スタンザFX(後期型からスタンザに車名変更)が販売面で苦戦し失敗していた事から、FF化されたU11型ブルーバードでは、FFである事はCMではあまりアピールしていなかった。
1984年1月 1800クルージング シリーズ追加 。
1984年9月 ディーゼルエンジンを搭載する「2000SLX-G」を追加。
1984年10月 派生車種として「ブルーバード・マキシマ」(後に「マキシマ」として車種独立)が登場。日本初のV型6気筒ターボ(VG20ET型)を搭載したFF車として話題となった。標準のU11系に対し、フロントオーバーハングを90mm延長され、セドリック/グロリアにも搭載された、超音波路面ソナーを持つ「スーパーソニックサスペンション」が採用された。
1984年11月 国内生産累計600万台達成。
- この年国内販売はコロナに次いで4位となる。(1983年はコロナについで5位。)
1985年1月 エクストラシリーズを追加。「セダン 1600/1800LXエクストラ」、および「セダン/ハードトップ 1800SSS-Eエクストラ」。
1985年8月 マイナーチェンジ。ランプ類の意匠変更等、内外装の一部変更のほか、SSSシリーズに直列4気筒DOHC 1809ccターボ付のCA18DET型(145ps)を搭載するモデルが登場している。ちなみに、この時も「日本初 FF TWINCAM TURBO」と、日本初を謳っている。但し、インタークーラーの装着はなされていなかった。その他、「セダン/ハードトップ 1800スーパーセレクト」、「セダン 1600SLX-G」、および「ADワゴン 1800SSS」が追加された。
U11後期型のCMは、CMキャラクターの起用は一切せずにキャッチコピーは「人の中へ」であった。ガーシュインの名曲「ラプソディー・イン・ブルー」が流れる落ち着いたCMだ。 また、ブルーバード史上で唯一、SSS系でのワゴンの設定があり、ターボモデルも存在した。加えて、後期型には日産FF車として初めて、1800に教習車が設定された(1986~87年、当初はMTのみで、後にATも追加)。
1986年1月 マキシマをマイナーチェンジ。VG20E型搭載モデルを追加。
ライトバン/ワゴンは、(フルモデルチェンジ当初はブルーバードADバン/ワゴン)はセダン/ハードトップがU12系に移行した1987年以降も継続生産され、日産で初めてワゴン/バン専用設計を取り入れたRV車「アベニール」が誕生した1990年にモデル廃止となった。
[編集] 8代目(U12型、1987年-1991年)
1987年9月発売。ハードトップとセダンの2種類がラインアップ。グレード構成は、ブルーバード伝統の「SSS」のほか、「FEサルーン」、「XEサルーン」、「スーパーセレクト」が設定されていた。フルタイム4WDシステム「ATTESA」(アテーサ)(スカイラインGT-Rの「ATTESA E-TS」とは別物)を採用。特にインタークーラー装着、ハイオク化で175psにまで高められたDOHCターボのCA18DETは、4WDモデルの「SSS ATTESA LIMITED」にのみ搭載された。
これとは別に、ラリー競技を主眼に設定されたラリーバージョンの「SSS-R」も注目を引いた。このSSS-Rは当然の事ながらATTESAを搭載しているが、スペシャルメイドのエンジンとして、185psを誇るCA18DET-Rが特別に搭載された。チューン内容はターボの過給圧増に伴う圧縮比ダウン、ステンレスエキゾーストマニホールドの採用、カムのオーバーラップ増などであるが、コスワース製の鍛造ピストンが組み込まれていた事も話題性が高かった。なおオーテックジャパン扱いのこのSSS-Rは台数限定生産車ではなく、注文装備車として月産10台程度ながら、モデル末期までいつでも購入できた。
1988年 全日本ラリー選手権Cクラスに参戦しドライバーズチャンピオンを獲得。
後期型では、CA系エンジンからSR系へスイッチしている(但し、1.6L車は引き続きCA16S型エンジンを継続)。
同モデルでも、教習車が設定されている(オーテックジャパン扱い)。
CMは、前期型・後期型共にCMキャラクターの起用は一切無かった。
前期型のCMでは、新開発の4WDシステム「ATTESA」の機能を強調する為に黒のブルーバードが雪道を走行しているCMや、木立の中を黒と赤のブルーバードが並走しているCMがあった。CM曲はシャーデーの「ラブイズストロンガーザンプライド」が起用され、キャッチコピーは「走る、曲がる、止まる。そのどんな瞬間にも最高の車であってほしい。」「ブルーバードが、好きだ」であった。
後期型のCMでは、新しく設定された2000ccのSSS(赤色)が登場しており、CM曲は「アメイジンググレイス」が起用され、キャッチコピーは「グッドカー」であった。
なお、U12型のモデル末期から放映されていた日産店系列のオリジナルCMキャラクターに、歌手・タレントのとんねるずが起用され、「ブルーバード販売会社活動報告」に始まり、「ブルーバード販売会社へようこそ」で締めくくる、ブルーバードを専売車種としている日産店系列の独自のオリジナルCMとして、U12型のモデル末期から次期型のU13型にモデル初期の頃まで放映されていた。
[編集] 9代目(U13型、1991年-1995年)
1991年9月21日発売。セダンはスポーティな「SSS」(スリーエス)、ビジネス・エコノミーグレードの「EEX」(イーエックス)と後に追加された「ビジネス」が設定された。
エンジンは1600CCはツインカム電子制御キャブレターのGA16DS(97ps/6000rpm、13.5kg-m/4000rpm)、1800CCはツインカムEGIのSR18DE(125PS/6000rpm、16.0kg-m/4800rpm)、2000ccはツインカムターボEGIのSR20DET(210PS/6000rpm、28.0kg-m/4000rpm)、ツインカムEGIのSR20DE(145PS/6400rpm、18.2kg-m/4800rpm)、2400CCはツインカムEGIのKA24DE(150PS/5600rpm、21.5kg-m/4400rpm)、ディーゼルは2000ccのCD20(76PS/4800rpm、13.5kg-m/2800rpm)が設定されていた。SSS系にはSR18DE、SR20DE、SR20DET、KA24DEが、ARX系にはSR18DE、SR20DE、KA24DE、CD20が、EEX系にはGA16DS、CD20が、ビジネスにはSR18DEが設定された。
トランスミッションは5速フロアシフトとOD付き4速ロックアップATが設定され、SR20DET搭載車とSR20DE搭載車の4WDモデルのATはフルレンジ電子制御AT「E-AT」であった。
駆動方式はFFと4WDのATTESAが設定された。ATTESAはセンターデフにビスカスカップリングを用いたU12以来のシステムで、ガソリン2000cc車はリアLSDにもビスカスカップリングを用いており、SSSリミテッドアテーサには新システムであるフロントにもビスカスカップリングを用いたトリプルビスカスが採用された。
サスペンションは前輪はストラット(FF車はサブフレーム付き)、後輪はサブフレーム付きパラレルリンクストラットの4輪独立懸架で、U12以来のSTCサスであった。
装備はハイマウントストップランプが全車標準装備となったほか、上級グレードの「ARX-Z」にはSRSエアバッグ(後に全車標準装備)、車内に取付けたマイクで集音した波形と逆位相の波形を専用スピーカーから送出して車内騒音を軽減させるANC:アクティブノイズコントロ-ル、先にS13型シルビアに採用のフロントウィンドウに、速度・ブレーキ警告・ドア警告を表示させるフロントウィンドウディスプレイなどがあった。
海外モデル SSS系は北米でも生産され、国内モデルよりも幅が広いものが「アルティマ」の名称で販売された。中国の東風自動車でも近年まで生産されていた。ARXは香港に2000ccモデルのみが輸出された。
ピラードハードトップは、エレガントな「ARX」(アークス)が設定されたが、セダンは、北米でデザインされた独特なフォルム(410型のような「尻下がり」)が受け入れられず、当初のキャッチコピーでもあった「ブルーバード×2(バイツー)計画」どころか、大げさな表現ではあるが、その反対の「ブルーバード1/2(2分の1)計画」になってしまった程に、それまでのブルーバードの人気と共に販売台数も低下してしまい、急遽、当初エレガント系としていた「ARX」に、セダンの「SSS」系同様のスポーティグレードである「スーパーツーリング」が追加設定された。
ちなみに、マイナーチェンジされた後期型からは、「SSS」系は宣伝上も登場せず、カタログでの扱いも小さくなった。後期モデルではブルーバード初で唯一の3ナンバー車である2400ccの設定が追加された。
開発主管は、510型、910型、U11型などの歴代のブルーバードの開発に携わり、ヒット車種として知られるS13型シルビアの開発主管を担当していた川村紘一郎が務めたが、U13型の発売後に商品開発室長に転じた直後に他界している。
前期型発売当初のCMは、セダンとハードトップの異なったボディスタイルを売り物としていた事から、セダンのSSSを「ブルーバード・A」、ピラードハードトップのARXを「ブルーバード・B」とし、キャッチコピーは「日本車の新展開が始まった、ブルーバード×2(バイツー)計画始まる」と称され、CM曲には、橋本一子の「はるかなる想い(ブルーバード・バージョン)」が起用された。
ちなみに、この頃に放映されていた日産店系列のオリジナルCMとして、CMキャラクターに歌手・タレントのとんねるずが起用され、「ブルーバード販売会社活動報告」に始まり「ブルーバード販売会社へようこそ」で締めくくる、ブルーバードを専売車種としている日産店系列の独自のオリジナルCMとして、U12型のモデル末期から次期型のU13型にモデル初期の頃まで放映されていた。
後期型のCMは、「すこぶる、しっかり、新型ブル」のキャッチコピーで、ピラードハードトップのARXをメインにしたCMが展開された。
2002年6月 第7回北京国際モーターショーにて、U13型をベースとする「ブルーバード フラッグシップモデル」を発表。ブルーバードの中国市場での名称は「藍鳥」。中国風神汽車がライセンス生産し、発売は同年7月。
[編集] 10代目(U14型、1996年-2001年)
1996年1月発売。U14型。ハードトップがなくなり、セダンのみとなる。P11型プリメーラと内部構造を共用した。
CMは、つかこうへい氏の手による、常盤貴子、蟹江敬三、風間杜夫、荻野目洋子、日産自動車の工場従業員が出演するコマーシャルが話題を呼び、CMキャッチコピーは「ベリーベリーブルーバード」であり、CM曲は、Mr.Childrenの「また会えるかな」が起用されていた。なお、ティザーのCMのみ阿部寛が出演していた。
1998年9月 マイナーチェンジ。1800ccの「SSS」にNEO Di直噴ガソリンエンジンとハイパーCVTを組み合わせたモデルが設定された(直噴ではない1800ccエンジンとトルコンATを搭載したモデルもあった)。さらに、2000cc全車にハイパーCVT(SSSはマニュアルモード付き)が搭載された。また、U14ブル最強のモデルとして、パルサーやプリメーラで採用された「NEO VVL」エンジン(SR20VE)を搭載した「2.0 SSS-Z」も設定された。
SSS以外のモデルでは、「ルグラン」「エプリース」「FE」が設定され、エプリースにはディーゼル車が設定されていた。また、SSS同様、1800ccには直噴エンジンとハイパーCVTを搭載した「ルグラン」も設定されていた。
ディーゼル車のエンジンは、B15サニーが新開発のNEO Di直噴ディーゼルエンジン(YD22DD)を搭載していたのに対し、ブルーバードのそれは旧態依然としたCD20だった(これはN15パルサーにも搭載されていた)。
1999年10月 40周年記念車を発売。
エプリースは捜査覆面パトカーとして国費で大量導入された。警察署にはブルーバードかトヨタ・アリオンの覆面パトカーが必ずあるといっても過言ではない。
[編集] その後のブルーバード
2000年8月 N16型アルメーラ(海外向けN15型パルサーの後継車種)と車台を共用するG10型ブルーバードシルフィ登場。U14型ブルーバードと並売する形をとる。
2001年8月 P12型のプリメーラの登場に伴い、U14型生産終了。これをもって42年のブルーバードの歴史にピリオドを打った(ちなみにライバル車のコロナも同年12月に生産を終了した)。
2005年12月 2代目ブルーバードシルフィが発表・発売される。初代の登場時はブルーバードが並売されていたこともあり、当初車名がブルーバードに戻る、あるいはブルーバードが消えて「シルフィ」のみになるのでは、とも囁かれたが、2代目ブルーバードシルフィとしてデビュー。「サニー」「セドリック」といった日産なつかしの車名が立て続けに無くなっていく中、「ブルーバード」の名は形を変えて残っている。
[編集] 車名の由来
メーテルリンクの童話「青い鳥」にちなむ。通称「ブル」。
当時の川又克二社長によって命名された。当初は「スノーバード(ユキホウジロ)」と命名されるはずだったが、これがアメリカの俗語で麻薬常習者を意味していたため、改名せざるを得なかったと言う逸話がある。