朝潮太郎 (4代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝潮 太郎(あさしお たろう、1955年12月9日 - )は、高知県安芸郡(現在の高知県室戸市)出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は大関。現在は7代高砂親方。本名は 長岡 末弘(ながおか すえひろ)。
目次 |
[編集] 略歴
学生アマチュア横綱出身。1978年(昭和53年)3月幕下付け出しで本名「長岡」でプロ入り。7月新十両。11月新入幕。1979年(昭和54年)3月「朝汐太郎」襲名。1982年(昭和57年)11月「朝潮」と改名。1983年(昭和58年)5月大関昇進。1989年3月引退。
[編集] 来歴
「大ちゃん」と呼ばれ、相撲を知らない人でも名前だけは聞いたことがあるという人が多かったほどの人気を博した大関。
高知小津高時代から相撲を始め、近畿大学で2年連続してアマチュア横綱のタイトルを獲得。その功績から幕下付け出しが認められ、1978年(昭和53年)3月「今度はプロの横綱を目指します」と当時古参幕下力士の少なかった高砂部屋に入門し、負け越し知らずでわずか1年で入幕。
入幕2場所目で当時の大関貴ノ花を破り、初の敢闘賞を獲得。四股名も先代朝潮太郎だった師匠から高砂部屋では最高の「朝汐太郎」を頂き、襲名する。しかし早くもプロの壁にぶつかり、翌場所(昭和54年(1979年)3月場所)、上位陣との連日の対戦で初日から8連敗を喫する大不振に陥り、やっと手にした白星は、9日目の大関旭国の休場による不戦勝が初。結局この場所は5勝10敗(うち不戦勝1)に終わり、それから数場所も負け越しの連続で幕内下位に低迷し、影が薄い存在と化していた。
その後、徐々に幕内上位に返り咲き、昭和55年(1980年)3月場所11日目、横綱北の湖との2度目の対戦で、朝汐は北の湖が出たところを豪快な引き落としで破り初金星を挙げ、これを皮切りに朝汐は上位陣から恐れられることになる。以後朝汐は輪島、三重ノ海、若乃花、千代の富士といった横綱陣との対戦では度々土をつけ、特に史上最強の横綱ともいわれた怪童北の湖との対戦では、仕切りから横綱の計算を狂わせ、ファンはおろか当の上位力士でさえも驚くばかりの強さを発揮し、当時の幕内力士では唯一北の湖に通算13勝7敗(不戦勝1含む)と歴然とした差で勝ち越したことで話題を呼んだ。素晴らしい成績を挙げながらも優勝・大関には手が届かず、3度あった優勝決定戦ではあと一歩のところで及ばず、勝敗の差が激しく連勝か連敗が目立ついわゆる「連(ツラ)相撲」も特徴であった。
特筆すべきは昭和58年(1983年)1月場所である。この場所の朝潮は破竹の勢いに乗り、北の湖を掬い投げでひっくり返し、若乃花を土俵下に突き飛ばして引退に追い込み、千代の富士も押し出して横綱を総なめにし、琴風以外の大関も倒す大活躍を見せつけた。結果は琴風との優勝決定戦となり、惜しくも敗れたが、大物同士がひしめき合ったこの場所で14勝1敗という優勝同然の成績を挙げた朝潮の活躍は、相撲内容も優勝した琴風以上のもので、横綱キラー朝潮の強さをまざまざと見せつけられた場所であった。関脇以下の力士が横綱を3人倒すという快挙は当時では非常に稀で、歴史を辿っても過去に2人(先代横綱朝潮・富士櫻)しかいなかった。翌場所でも12勝3敗と大関へ昇進する条件の成績を挙げ、ついに大関の座を射止めた。まさに朝潮が最も脂の乗った時期であった。
大関でも連相撲ぶりが目立っていたが、昭和60年(1985年)3月場所では6日目から連勝を重ねて勢いに乗り、千秋楽で大関若島津との相星決戦を征し、第二の故郷大阪で悲願の初優勝を果たした。この時期には相手に当たった衝撃で額から血を流すことがしばしば見受けられ、流血も顔を二分化するかのような凄まじいものであった。本人曰く、「白星欲しさに」だというが後に「あんなことしても痛いだけなんですけどね」と言っている。初優勝した場所でも流血して勝ちを取ったかのような勢いがあった。また昭和60年代からは14日目か千秋楽に勝ち越しを掛ける場所が多く、この時の朝潮は横綱も正面から打ち負かすほどの最強の強さを発揮していた。
ライバルとしては北天佑、隆の里、千代の富士などがいた。北天佑とは25勝16敗という成績を残し、引退まで同じ大関としてよく互角の勝負を演じた。隆の里とは14勝12敗とほぼ互角の成績で、勝ったと思ったら、翌場所は負けるといった勝敗の繰り返しが目立ち、因縁めいた対決が見物であった。
苦手力士も多々いた。琴風とは優勝を争ったこともあり、成績では10勝16敗と負け越したものの、時々豪快に勝つこともありファンを湧かせ、苦手というよりはむしろライバル的な顔合わせであった。後から出てきた北尾(4勝12敗)、大乃国(13勝18敗)、旭富士(5勝22敗)には大きく引き離され、年齢差や体格の違いからも勝つことが難しかったようだ。他にも下位力士に不覚を取ることが日常茶飯事で、成績も安定感に欠ける面があり、優勝も1回だけで2桁勝利は意外と少なかった。最晩年には、当時は突き押しのみが得意だった100kgに満たない幕内最軽量級の若手力士寺尾にがっぷり四つに組んだ相撲で電車道の横綱相撲を取られる失態を犯した。これはある意味朝潮の致命的な弱点で、受けに回るとあっけなく寄り切られるという巨漢力士に似合わぬものであった。稽古不足の影響か晩年は押し相撲には必須の出足が鈍り引きや叩きに対して脆く(前に落ちやすく)なってしまった。
成績は大関止まりであったが、当時の横綱大関陣の優勝、番付昇進は朝潮の活躍が大きく作用している点も見逃せない。北の湖は前述の通り、朝潮に再三破れたために、全勝、連勝を何度も止められている上、千代の富士にも幾度も優勝を譲っている。昭和56年(1981年)1月場所では関脇千代の富士は全勝で千秋楽を迎えた。北の湖は朝汐に負けて13勝1敗、千秋楽の北の湖対千代の富士は北の湖が勝ったが決定戦で千代の富士が本割のお礼とばかりに横綱を這わせ初優勝、場所後大関に昇進した。同年7月場所で横綱昇進を決めたのも、全勝の北の湖が朝汐に突き倒されて、千秋楽に相星決戦となった伏線があり、これもまさしく朝潮の暗躍の結果である。
学生時代は相撲以外にも数学系を得意とし、教師を志していたという。また、本場所で支度部屋での朝潮は面白いキャラクターそのもので、その日の勝敗についてよくマスコミと冗談も交えて談笑して雰囲気を盛り上げたものであった。この朝潮の話し方は難波人らしいもので、広報部長に就いているのも、持ち前の話術をうまく生かしているものと言えよう。
また、いしいひさいちの4コマ漫画でも主人公となり、「ワイはアサシオや!」という単行本になったほど。彼のキャラクターがいかに魅力的だったかがわかる。ちなみに彼自身この漫画のファンで、いつも読んでは爆笑していたという。器の大きさを表すエピソードである。
引退後は、年寄・山響を襲名。後に元関脇・房錦勝比古の若松親方が病気で廃業すると「若松」を継承する。山響親方、若松親方時代は「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」などのバラエティ番組にも積極的に出演し、独特のキャラクターで視聴者を笑わせていた。
現在は7代目高砂親方として協会理事兼広報部長として、彼自身が果たせなかった横綱、朝青龍明徳を育て、二人三脚で相撲界の主役を果たすべく修行中。現役時代は、旭富士と並び、代表的な稽古嫌い名力士として知られ、素質、人気に比べて大した成果を残せなかった。弟子の朝青龍の横綱昇進前後の問題児ぶりは、朝青龍自身の責任もさることながら、彼の親方としての管理能力の低さに起因するとも言われていたが、朝青龍自身が徐々に成長して親方の助言も聞く場面もでており、今後の親方としての活躍が注目される。
[編集] 主な成績
- 通算成績:564勝382敗33休
- 幕内成績:531勝371敗33休
- 幕内在位:63場所
- 大関在位:36場所
[編集] 各段優勝
- 幕内最高優勝:1回(1985年3月場所)
[編集] 三賞・金星
[編集] 対横綱北の湖
[編集] 対戦成績
昭和54年3月 | ●朝汐 | 寄り切り | 北の湖○ | 0-1 | 初対決はプロの意地を見せた北の湖が先制。本人曰く、「オレに勝つのはまだ3年早い」。朝汐はこの場所、初日から大連敗(8連敗)を喫し、プロ入り初の負け越し。 |
昭和55年3月 | ○朝汐 | 引き落し | 北の湖● | 1-1 | 1年ぶりに再び上位に返り咲いてきた朝汐、立合い、突っ張り合いとなり、突進する北の湖の僅かな隙を突き、土俵際で右に回って叩き込み、横綱を土俵に這わした。横綱戦に初勝利した朝汐は、初の殊勲賞受賞。 |
昭和55年5月 | ○朝汐 | 押し出し | 北の湖● | 2-1 | 北の湖、まさかの連敗。「どうした北の湖」とファンを唸らせた一番。同じ相手に対しての連敗癖を露呈。 |
昭和55年7月 | ●朝汐 | 寄り切り | 北の湖○ | 2-2 | 北の湖、朝汐に土俵際まで攻め込まれたが、横綱の意地を張らんとばかりに北の湖が凄まじい形相で反撃し辛勝。星を5分に戻す。この場所の北の湖は全勝優勝を飾る充実振りで、朝汐も北の湖には勝てなかったものの、他の上位陣に勝ったことから、3場所連続殊勲賞を受賞する健闘ぶり。 |
昭和55年9月 | ●朝汐 | 寄り切り | 北の湖○ | 2-3 | 再び北の湖が勝ち越す。その強さからもファンにとってこの後、横綱が連敗するとは夢にも思わなかったことだろう。 |
昭和56年1月 | ○朝汐 | 突き落し | 北の湖● | 3-3 | 朝汐が再び引き技で、北の湖の連勝に待ったを掛ける。北の湖はこの場所、14勝1敗同士の決戦で千代の富士に優勝を譲る。 |
昭和56年5月 | ○朝汐 | 引き落し | 北の湖● | 4-3 | またも朝汐の引きに横綱不覚。北の湖は14勝1敗で優勝したものの、この場所でも朝汐だけに土をつけられた。北の湖はどうも朝汐の引き技に首を傾げる様子。朝汐は現役力士で唯一北の湖に勝ち越す快挙! |
昭和56年7月 | ○朝汐 | 突き倒し | 北の湖● | 5-3 | 北の湖が初日から13連勝で14日目に組まれた。立ち合い、横綱は反射的に変わってしまい、当の本人さえ分らない「苦手意識」を露呈。突っ張り合いの末、朝汐に突かれ、しりもちをつき土俵下まで転落する大番狂わせで、館内は座布団の嵐!実力より相性の問題と思われた一番。 |
昭和56年9月 | ○朝汐 | 寄り切り | 北の湖● | 6-3 | 朝汐、この場所負け越し不振ながらも、寄り倒し気味に堂々打ち負かす。北の湖は対朝汐戦4連敗で、この一番で優勝を争っていた琴風が初優勝を決めた。しかし皮肉にも、翌日千秋楽で朝汐と対戦した琴風は土をつけられてしまう。 |
昭和56年11月 | □朝汐 | 不戦 | 北の湖■ | 7-3 | 皆勤北の湖が初休場し朝汐の不戦勝。この場所の朝汐は12勝3敗(不戦勝1含む)で準優勝。 |
昭和57年1月 | ●朝汐 | 寄り倒し | 北の湖○ | 7-4 | 北の湖、朝汐の引き技に乗らず堂々と寄り倒し、久々の雪辱を果たしご満悦。北の湖はこのまま千秋楽まで連勝を重ね、13勝2敗で優勝。 |
昭和57年3月 | ○朝汐 | 押し出し | 北の湖● | 8-4 | また北の湖が先場所以来続いていた連勝をストップされる。明らかに苦手意識がある横綱。 |
昭和57年5月 | ○朝汐 | 押し出し | 北の湖● | 9-4 | 横綱、平幕力士みたいなあっけない負け方。本人曰く、「なぜか知らないけど、あららという間に負けちゃう」とか。朝汐は13勝2敗と優勝争いでも大健闘した場所。 |
昭和57年9月 | ●朝汐 | 寄り切り | 北の湖○ | 9-5 | 横綱らしい堂々たる取り口で北の湖の快勝。いつの間にか両者の対戦は勝敗問わず、どの新聞でもスポーツ欄のトップを飾るようになる。 |
昭和57年11月 | ○朝潮 | 押し出し | 北の湖● | 10-5 | この場所は珍しく初日の対戦。しかし横綱、初日からいきなり敗れる。対戦日で強さが違うということもないようだ。 |
昭和58年1月 | ○朝潮 | 掬い投げ | 北の湖● | 11-5 | この場所では4日目に組まれた。立ち合いから北の湖が優勢で、思い切って朝潮を追い込んだが、土俵際で逆転され、場内は大失笑。受けに回れば朝潮に攻め込まれ、攻めると慌て癖で無理が生じるようだ。 |
昭和59年1月 | ○朝潮 | 寄り切り | 北の湖● | 12-5 | 1年ぶりの対戦だが、まだジンクスは生きていて朝潮の圧勝。朝潮はこの場所、千代の富士・隆の里の2横綱も本来の朝潮らしい強さで撃破! |
昭和59年3月 | ○朝潮 | 寄り切り | 北の湖● | 13-5 | 北の湖はちょうど幕内通算1000回出場という、記念すべき日だったが、またも破れ、ファンに「もうだめだ。朝潮には勝てない」と思わせた一番。北の湖戦に限って強い朝潮に、さすがの横綱も珍しく悔しさを露にしてしまう。「どうしてオレの時だけ強いんだ!」 朝潮はこの場所も3横綱を総なめ。 |
昭和59年5月 | ●朝潮 | 寄り切り | 北の湖○ | 13-6 | 朝潮が優勢で北の湖を追い込んだが、土俵際で体が入れ替わり、北の湖に軍配。北の湖はこの場所最後の全勝優勝を飾り、強い北の湖が久々に復活。 |
昭和59年7月 | ●朝潮 | 寄り切り | 北の湖○ | 13-7 | 北の湖、万全の相撲で朝潮に連勝。北の湖にとっては15日間出場した場所で最後の白星となった一番。両者の対戦は朝潮の13勝、北の湖の7勝でここに終わった。 |
[編集] 対戦分析
北の湖がなぜ朝潮に弱かったのか?これには様々な説があるが、集約してみると次の通りである。
- 朝潮の顔が面白く見えてしまい、笑いを必死で抑えると同時に体に力が入らなかった。
- 朝潮のゆっくりした仕切りに、北の湖の気持ちが焦らされた。(時間的に見ると、普通の力士の倍以上掛かっている)
- 引き技・いなしを得意とした朝潮に思い切って出て行けず、そこを朝潮に攻められた。
- 朝潮の引き技に相撲勘がピンと来なかった。
- 高見山との稽古で身につけた朝潮のぶちかましが、横綱をも後退させるほど強烈だった。(実力的な面での見解)
北の湖本人も「何故そうなったのか分らない」と言うほど、朝潮の攻めは計算出来ないものだったらしいが、全体的に見ると、上記の要因がそれぞれ複雑に作用して結果に現れたと推察される。少なくとも心理的な要因が働き、北の湖の出足を鈍られたことはほぼ間違いないと言っていいだろう。実力の世界である相撲で、このような心理的要因が起因して予想されない結果を生むことは、他のスポーツ界でも見られる不可思議の1つと言えよう。
[編集] 改名歴
- 長岡 末弘(ながおか すえひろ)1978年3月場所-1979年1月場所
- 朝汐 太郎(あさしお たろう)1979年3月場所-1982年9月場所
- 朝潮 太郎(あさしお たろう)1982年11月場所-1989年3月場所
[編集] 年寄変遷
- 山響 末弘(やまひびき すえひろ)1989年3月-1990年3月
- 若松 末弘(わかまつ -)1990年3月-2002年2月
- 髙砂 浦五郎(たかさご うらごろう)2002年2月-