武藤敬司
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武藤敬司 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 武藤敬司 愚零闘武多(グレート・ムタ) 黒師無双 スペース・ローンウルフ |
本名 | 武藤敬司 |
ニックネーム | 天才・ジーニアス プロレスリング・マスター クロス・ウィザード スペース・ローンウルフ etc. |
身長 | 188cm |
体重 | 110kg |
誕生日 | 1962年12月23日 |
出身地 | 山梨県富士吉田市 |
所属 | 全日本プロレス |
スポーツ歴 | 柔道 |
トレーナー | アントニオ猪木 ヒロ・マツダ |
デビュー | 1984年 |
武藤敬司(むとう けいじ、1962年12月23日 - )は、日本のヘビー級のプロレスラー。1984年アントニオ猪木率いる新日本プロレスに入門後、入門早々にして頭角を表し、同期入門の蝶野正洋、橋本真也(故人)と共に「闘魂三銃士」を結成し、プロレス新時代の旗頭として一世を風靡する。またグレート・ムタ、黒師無双という別キャラクターとしても戦いに挑む。 現在は全日本プロレス代表取締役社長。山梨県富士吉田市出身。山梨県立富士河口湖高等学校卒業。身長188cm、体重110kg。血液型B型。
目次 |
[編集] 人物
闘魂三銃士の一人。「日本マット界の至宝」と言われる。「天才」「GENIUS」「プロレスリングマスター」「天才を超えた魔術師」の名を欲しい侭にし、数々のベルトも手にしてきた。さらにアメリカでも武藤敬司の第2の化身で、ギミック上グレート・カブキの息子である「グレート・ムタ」としてWCWに登場し、アメリカでもその人気を不動のものとした。帰国後も様々なタイプの「グレート・ムタ」で多くの選手・観客を魅了し、恐怖に陥れた(グレート・ムタの偽者までアメリカで登場している{後述})。今でも人気・知名度ともに非常に高いキャラクターである。そして全日本プロレス移籍後の「王道的愛」をテーマに、武藤敬司の第3の化身「黒師無双」としても活躍している。また自ら「プロレスLOVE」を公言しており、試合でもそれを感じさせる。そして「プロレスLOVE」ポーズ(両手で手話の「狐」のような形を作って投げキッスのように腕を展開する。その際「イャーーッ」の声もかかる。元ネタはウルフパックポーズである。)がさらなる知名度に拍車を掛ける。(タレント神奈月の武藤敬司に扮した物真似で頻繁に見られる。神奈月の物真似に関しては武藤は公認であり、何度も物真似番組や対談番組にて共演しているほか、リング上でタッグを組んだこともある。)
膝に負担のかかる技を使い続けたため膝に持病を抱えて(両膝の軟骨の減少、摩滅等)おり、直立したつもりでも膝が「く」の字に曲がっている。後遺症は重く、カニ歩きでないと階段を昇り降り出来ない、プライベートでは300m以上は断続的に歩けないなど酷い状態だが、手術をすると「もうプロレスが出来なくなる」為にそのままになっている。それでも、ここ一番というときにはムーンサルトプレスを炸裂させる。一時期、スランプになりかけたが、何度目かの渡米を果たし、帰国後、主に相手の膝を踏み台にしての低空膝蹴り「シャイニング・ウィザード」を編み出し再度復活し、新日本プロレス・全日本プロレスをまたがって6冠を獲得するなど、再度頂点を極め「天才」の証明をする。
このシャイニング・ウィザードはよくレスラー連中に模倣され、特に黒田哲広(アパッチプロレス軍)やランジェリー武藤(武藤敬司をモチーフとし女性用下着を着用した主にZERO1-MAXを主戦場とするレスラーで、正体は格闘探偵団バトラーツの澤宗紀)、NOSAWA論外、菊タロー(全日本プロレスを主戦場とするフリーランス)は頻繁にこの技を当用している。特に菊タローは“シャイニング・菊ザード”(ちなみに菊タローの以前のリングネームのえべっさんの時は“シャイニング・えべザード”)としてちゃっかり自分のフェイバリット・ホールドにしている(しかも武藤と同じリングで披露する)。 このように数々の技のパイオニアでもある。
総合格闘技を「競技」と言い切り、またUWFスタイルに対しても「柔道と同じ」と表現する等、所謂格闘技路線に価値を置いていない。しかし何故か、新日本プロレス所属時代にペドロ・オターピオと異種格闘技戦を行い、マウントパンチで勝利したことがある。
[編集] 経歴
中学から柔道を始め、中三で初段になる。その後、東北柔道専門学校でさらに柔道をおさめ、全日本ジュニア3位、強化選手にも選ばれる。卒業後、接骨院(佐山聡と繋がりのある所)でインターン研修中、新日本プロレスに紹介され、1984年入門。同期の船木誠勝によると、入門3日ほどで山本小鉄に辞めたいと言ったことがある。その後も幾度となく出奔を企てるが、その都度、将来性を見込んでいた山本から引き留められる。天性の運動神経とルックスから、早くから将来のエース候補と目され、ヤングライオン杯優勝を経ることなく海外遠征に出発。帰国後、スペース・ローン・ウルフなるギミックで売り出される(当時はリング登場時のコスチュームに宇宙飛行士のヘルメット、ブルゾンタイプのガウンに胸元に“610”(「ムトウ」の意)と書かれていた。所々ラメの入った青いロングタイツに白いリングシューズで真っ直ぐのふさふさした頭髪は現在の面影など全く感じられないジャニーズ風キャラクターであった。ちなみにテーマ音楽は「ファイナル・カウントダウン」でリング内入場はロープ間を跨ぐような事はせず、鉄棒の前転をするような形でトップロープ上で宙返りしリングインする)がファンの支持を得られず失敗。しかし早い時期から藤波辰巳とのシングルマッチを実現したり頭角を表してきた。
その後、アメリカ修行を経て凱旋帰国、同時にオレンジ色のショートタイツにコスチュームを変え、IWGPヘビーを奪取するなど、人気・実力ともに絶頂期を迎えた(“セクシーターザン”“ときめきバージンレッドの熱い風”等と「ワールドプロレスリング」の実況アナウンサー辻よしなりは形容した)。 1995年10月9日東京ドームでの新日本対UWFインターナショナルの対抗戦のメインイベントでの高田延彦戦は、敢えてこの決戦用にドラゴンスクリューからの足4の字固めという古典的な技を復活させ、堂々の勝利となり、プロレス史の1ページを飾る一戦となった。
1997年、WCW参戦時にnWoジャパン(New World Order)に共鳴しグレート・ムタとして加入、のちに試合中にムタから武藤に変身(試合中に退場して数分後にペイントを落として戻ってくる)し、武藤としてnWoに加入。(1997年頃・この当時からイラストや英語の文字が記入された黒のロングタイツを着用)この頃、プロレスラーとしての円熟期を迎え“ナチュラル・ボーン・マスター”(生まれながらの天才)という称号が広まる。後にそのnWoの総帥であった蝶野正洋が負傷し長期離脱となり、武藤が軍団の舵取りをする役目となり“IAM BOSS”と武藤自らが連呼する時代となる。やがて蝶野は復帰するが武藤との関係はこじれnWoを脱退しTEAM 2000を結成。最終的に武藤が蝶野に敗れnWoは消滅(実際は本家nWoの権利を持つWCWとの契約満了のため)。
武藤は再度WCWに渡りグレート・ムタとして参戦。空港に着くなり、多数の報道関係者に取り囲まれ、アメリカ国内での人気はいまだに衰えをしらなかった。「あのプロレス史上最凶のヒールが帰ってきました」の賛辞で迎えられるがWCWの経営事情のため試合機会を満足に与えられず、武藤の帰国直後にWCWは消滅している。2000年12月31日の大阪ドームで開催された猪木祭に於いて国内復帰。武藤は高田延彦と一夜限りのタッグを組みドン・フライ、ケン・シャムロック組との対戦があったが,この日を境に現在の(つまり今世紀になってから)スキンヘッドという武藤の新しいスタイルが確立されたのである。(詳しく後記)(この試合は高田のバックドロップでシャムロックより勝利)2001年に新日本に復帰。団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT(BAT ASS TRANSLATE TRADING)」を結成、新必殺技シャイニング・ウィザードを引っさげて史上初の六冠王者(三冠ヘビー級王座、IWGPタッグ王座、世界タッグ王座)に君臨するなど活躍する。残り一つIWGPシングルを取れば新日、全日のすべてのベルト制覇だったが、武藤は時の王者藤田和之への挑戦は口にもしなかった。同年のプロレス大賞MVPに選ばれる。しかし格闘技路線を敷く新日本に反発し2002年1月31日を最後に主戦場であった新日本プロレスを退団、翌2月26日に全日本プロレスに正式入団する。「全日本プロレスに骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います。」と名言を残した。 その直後のチャンピオンカーニバルでは初出場初優勝を果たす。G1とチャンピオンカーニバルを制覇したのは史上初。同年10月には馬場元子社長から全日本プロレスを譲り受け社長となる。本来の団体の興行に加え、時には「W-1(レッスル・ワン)」と名うった興行も行っている。ジャイアント馬場からの形を残しつつ、武藤新体制として、新しい全日本プロレスを作り上げている。
かつてから武藤と並び天才と評されていた三沢光晴とは新日本時代から対戦のチャンスが無く、三沢のプロレスリング・ノア旗揚げや武藤の全日本移籍により一生肌を合わせることは無いだろうと見られていたが、馬場元子が会社から退いたためにそれを妨げるものは無くなり、2004年7月10日に行われたNOAH東京ドーム大会で初対戦(三沢・小川良成組vs武藤・太陽ケア組)。10月31日には全日本プロレス両国国技館大会に三沢が参戦し、武藤とタッグを組んだ(武藤・三沢組vs馳浩・佐々木健介組)。武藤は三沢を「恋人」と呼んでおり、初対戦で敗れた際には「夢の続き、見ませんか?」と三沢にメッセージを送った。このことが10月31日に実現した格好となった。なお、試合ではないがこれ以前に2001年にプレイステーション2用ソフト『オールスター・プロレスリング2』のCMとデモムービーの撮影で初めて肌を合わせている。また『リングの魂』(テレビ朝日)において二人の対談は実現している。
なお、輝かしい海外実績からか現在活躍している外人レスラーの中にもファンは多く、彼らからは敬意を込めて「マスター」などとも呼ばれていることから、近年は「プロレスリング・マスター」という愛称が定着しつつある。
普段は「武藤敬司」として活動するが、時には「愚零闘武多=グレート・ムタ」「黒師無双」となり活動する。2003年4月29日「BAPE STA!! PROWRESTLING ZEPP TOUR」のZEPP FUKUOKA大会では覆面レスラーTHE APEMAN PLATINUMに変身した。
[編集] 獲得タイトル歴
- NWAフロリダ・ヘビー級選手権…第114代王者。ホワイト・ニンジャとして、23歳5ヶ月で初戴冠。
- NWA(WCW)世界TV選手権…第12代王者。グレート・ムタとして王座獲得。
- NWA世界ヘビー級王座…第76代王者。グレート・ムタとして。
- WWC
- WWC・TV選手権…第7代王者。スーパー・ブラックニンジャとして。
- WWCプエルトリコ選手権…スーパー・ブラックニンジャとして。
- 全日本プロレス
- 三冠ヘビー級王座…第27,30代王者
- 第27代王者時代は、世界タッグ王座(2冠)とIWGPタッグ王座を同時に保持し、六冠王である時期もあった。
- 第30代はグレート・ムタとして。
- 世界タッグ王座…2度獲得。
- 新日本プロレス
- IWGPヘビー級王座…第13,17,24代王者
- 第13代はグレート・ムタとして。
- 3度の獲得全て、5度防衛した後に次の防衛戦で王座から陥落している。
- IWGPタッグ王座…6度獲得。
- グレーテスト18クラブ王座…第2代王者。グレート・ムタとしてIWGPと同時に獲得。その後封印。
- WCW
- WCW世界タッグ…グレート・ムタとして、パートナーはバンピーロ。チーム名はダーク・カーニバル。
- 1995年、1999年、2001年プロレス大賞 最優秀選手賞
- 1999年プロレス大賞 ベストバウト賞 (5/3 天龍源一郎戦)
- 2005年プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(&曙)
[編集] 得意技
技に対するこだわりが強い。ムーンサルトプレス、シャイニング・ウィザードを代表とする斬新な技を開発し、ドラゴン・スクリューなど他のレスラーが使う技でも必ず独自の改良を加える。そのため技術を感じられない技や観客を無視した技への嫌悪感は強く、越中詩郎のダイビング・フットスタンプを「あんな技うちの息子だってできる」と酷評した。 技全体に見られる特徴として、緩急の差が大きい。技を放つ際に、一旦空中で制止したかの様に見えた後に、高速な動きをとる。
- シャイニング・ウィザード(閃光魔術・閃光妖術)
- 武藤敬司の代名詞的な技。相手の膝等に飛び乗って頭部に膝蹴りをする。そのまったく新しい様式美・インパクト・パフォーマンス性の高さから、他選手が真似をはじめ、そのバリエーションも含め大量に使用されるようになった。
使い始めた当初と現在のバージョンは微妙に違っている(当初は、膝を相手の顔の正面へかち上げるような形で当てていたが、プロレス技としては見栄えが悪い上に、あまりに危険なため、モーション修正を繰り返した結果、現在では、外側から回し蹴りのようにして膝の裏側の部分を当てるモーションとなった)。 片膝をついた相手の膝を踏み台にするパターンが一番基本的なものである。バリエーションが多い。
- コーナーの相手に串刺し式
- コーナーに座っている相手に向かって、コーナーを駆け上って放つ
- レフリーの肩を踏み台として使う
- ブリッジしている仲間の腹部を踏み台にして使う
- 仲間が相手を肩車してコーナー上から相手に向かって使う(シャイニング・インパクト)
- 立っている相手に使う
- パワーボムの返し技
- この技の公開以降、多くのレスラーがこの技を使用したり、類似した技を使用するようになったため、相手の膝を踏み台にして技をきめると「シャイニング式~」と呼ばれるようになった。元々はWCW退団後、新日本復帰か総合格闘技進出どちらにするか考えていた時期にVT戦を想定して開発された技である。
- WWEのハリケーンなどはムタをリスペクトしており、シャイニングウィザードを使っており、オリジナル名もつけずに使っているために、WWEの実況でもちゃんとシャイニングウィザードと言われている。
- ムーンサルト・プレス
- ヘビー級とは思えないほど敏捷な身のこなしでトップロープに上っての後方270°回転ボディプレス。若手のころから使い続けてきた必殺技で、回転してリング上に達するまでの軌道が他のレスラーの使用するこの技と比べて非常に独特である。強靭な足の筋肉が必要で膝の関節にも多大な負荷がかかる。あまりにも技のフォームが美しいムーンサルトだったのでアメリカの団体WCWで多用するストーリーを組まされ続け、結果武藤の膝は変形するほど傷んでおり現在は多用できなくなった。しかしながら大一番の場面ではフィニッシュホールドとして使用している。多用していた際(赤・オレンジタイツ時代)、他の使い手と比較してもスピードは速く飛距離も長かった。
- シュミット式バックブリーカー
- 正面から相手の肩と股に手を回し相手がマットと平行になったときに自分の膝に勢い良く叩きつける。ムーンサルトプレスの前に使う頻度が高い。
- ドラゴン・スクリュー
- 相手の足を持ち回転し、その回転についていけなくなった膝にダメージを与える、受け方を知らないと膝の靭帯が破壊される事もある危険な技。実際、高田延彦は1995年10月の東京ドーム大会において、膝を破壊され、長期離脱に追い込まれた。この技は開発者の藤波辰爾から伝承された。普通のドラゴンスクリューはつなぎ技だが武藤の開発したトップロープに座らせての雪崩式は単発でも十分な破壊力がある。雪崩式の場合、背中を強く打ち付けるため膝だけでなくボディにもダメージを与えられる。見た目の動きが、技をかける方もかけられる方も大きいため、手軽に会場を沸かせられる技として多くのレスラーが使うようになった。
- 足4の字固め
- プロレス技の中でも最も古い部類に入る関節技。ドラゴンスクリューから続けて出したこの技で、高田延彦からギブアップを奪った事で再び必殺技として蘇らせた。他のレスラーは繋ぎ技として用いることが多いが、武藤は現在もこの技をフィニッシュホールドのひとつとして使用している。武藤がリスペクトするリック・フレアーの得意技でもある。
- (低空)ドロップキック・ミサイルキック
- 武藤の場合、4の字固めへの布石として低空で膝を狙うことが多い。タッグではドロップキックの波状攻撃で相手の膝を破壊する。シャイニング・ウィザードの布石として片膝をつかせるために使用することもある。
- (雪崩式)フランケン・シュタイナー
- 相手の頭を前方から足ではさみ自分の体を反らせることにより、相手の頭をマットに突き刺す技。武藤は相手をトップロープに座らせて行う雪崩式や、パワーボムで持ち上げられた際の返し技として使う。ムタの場合、毒霧を吹いてから行うパターンもある。ヘビー級で使用する選手は多いが、武藤はその中においても、速度や挙動の美しさは秀でている。この技から腕ひしぎ逆十字固めに移行することがある。
- 毒霧
- ムタ、黒師の代名詞的技。口の中に色付きの液体を含み霧状にして吹く技。パフォーマンスとして、また、相手に吹きかけることによって視界を奪うことも可能。パワーボムの返し技としても使用される。ムタは主に赤・緑を使用し、黒師は黒を使用する。
- 謎の多い技で、仕組みはおそらく本人や使用者でないと分からないだろう。一説では事前に舌を着色するらしいが、試合前でも喋ったりしてるが水は含んでないようで、試合中水他を飲むこともなく、一体あれ程の量の液体をどこで含んだのか、謎が多い技である(時々毒霧を吹いた時に何か袋のようなものが口から落ちるときがある。WCW遠征でムタがnWoに入るストーリーの試合中、ムタが毒霧を吹いた後、袋が落ちたのをレフェリーが足で払い落とそうとしたのをムタが制止した。その後に蝶野と組み合うフリをしてその袋を拾ってまた口に入れた。この袋に元が入っているのであろう。日本の試合でもよく落としている。ソレを武藤が眼で追ったりしているときもある)。
- フラッシングエルボー
- ドライビング・エルボーと呼ばれることもある。閃光のような速さで倒れた相手に肘を落とす。倒れた相手からは肘が消えて見えるという。ムタも使用する技。必殺技ではないが、独特のタイミングと身のこなしのために武藤ならではの雰囲気の漂う人気技である。辻よしなりは「フラッシュニングエルボー」と呼ぶ。WWEのスーパースターザ・ロックのピープルズ・エルボーは、これが元になっていると言われている。また、棚橋は高く飛び上がり、フラッシングエルボーに似た動きをする「青天井エルボー」というわざを使用する。
- スペースローリングエルボーからのフェイスクラッシャー
- コーナーにもたれかかった相手に向かって走っていき、距離を見計らって側転し、その勢いを利用して相手の胸元にエルボーを放つ。その直後に相手の顔面をマットに叩きつける。かつては試合中盤の組み立てに欠かせない技だったが、自分の膝の負担が大きく、また相手に動きを読まれやすくなったため(例・ラリアットで迎撃)、ムーンサルト・プレス同様、最近はあまり使用しなくなった。
- ドラゴン・スープレックスホールド
- 赤タイツ時代の武藤の得意技。橋本真也のV10を阻んだIWGP戦でこの技を繰り出した際、投げきったものの歯が8本折れてしまい、それ以来この技は封印している。近年は膝の状態の悪化のためか、使っていない。
- 胴絞めドラゴン・スリーパー
- グラウンド状態から自分の両足で胴絞めを決めつつ、ドラゴン・スリーパーを仕掛ける技。
- リバース・インディアンデスロック
- うつ伏せの相手の両足を交差させ、自分の片足を掛けた状態から後方に倒れ込み、両足にダメージを与える技。ムタはここから鎌固めに移行する事も。なお、アントニオ猪木の得意技でもある。
- STF
- グラウンドから相手の足首を極めつつ、フェイスロックで顔面を絞める技。蝶野の必殺技のイメージが強いが、武藤も中盤の繋ぎとして良く繰り出す。
- 指極め腕ひしぎ逆十字固め
- 逆十字で捕らえた相手の指を極める残酷且つ危険な技。言うまでもなくムタが使用する。
- 鎌固め(ムタロック)
- リバースインディアンデスロックの体勢から、後方にブリッジして相手のアゴを自分の両手で持ち、反り上げて絞め上げる。
[編集] グレート・ムタ
グレート・ムタは、ゲーリー・ハートによってつくられた忍者をモチーフにしたレスラー。設定上ザ・グレート・カブキの息子。カブキとは1993年に「親子」対決を、1998年には「親子」タッグを結成したこともある。ちなみに「ムタ」の由来は、外国人が「ムトウ」とうまく発音できないために、武藤自身が呼びやすい名前にした。そのため日本での意味は「グレート・ムトウ」ということになる。英語しか喋れないはずなのに、日本語を喋ってたことがある。もともとは顔にペイントをしていた。スキンヘッドになるとともに一時このキャラクタを封印していたが、毒蜘蛛をモチーフとするSFX用ラバーマスクとペイントを組み合わせた新しいスタイルで復活させた。ムタを封印している間は後述の黒使(師)無双が武藤の化身として登場していた。毒霧・凶器攻撃・反則攻撃が非常に多いが、武藤自身の華麗な技も披露する。試合は必ずといっていいほど流血試合になる。婚約中、リングサイドで観戦していた彼女の両親を引かせてしまったことがある。
なお海外遠征時と国内でのグレートムタは微妙にキャラクターが異なり、リングネームもホワイト・ニンジャやスーパー・ブラックニンジャを名乗った。
グレートムタには偽者が登場している。それが2002年10月に新日本プロレスに初登場し、2004年11月には全日本プロレスに登場したGREAT MUTAである。武藤敬司自身は偽者に嫌悪感を抱いており、全日本プロレスで対決した後はグレートムタ対GREAT MUTAの直接対決を行ってこれを打ち破っている。現在ではこの偽MUTAはマスクを脱いで素顔のジョニー・ザ・ブル・スタンボリーとして参戦している(但し当時スタンボリーはWWEに参戦していたため、新日本に登場した偽MUTAとは別人である可能性が高い。新日本の偽MUTAはダン・デバインであるとの説が有力である)。
なお、別レスラーのバリエーションとして元キングスロードの宮本和志はグレート・カズシ、大仁田厚はグレート・ニタ、小島聡は愚零斗孤士(グレート・コジ)、TARUはグレート・ルタ、曙はグレート・ボノ、吉江豊は具冷斗油太(グレート・ユタ)、竹村豪氏はグレート・タケ、鈴木正之はグレート・義太夫としてリスペクトしている。また、カブキ本人が新たに連れてきたカブキシート等が存在する。ただしカブキ直系(本人が連れてきた等)のギミックはムタとユタ、タケとカブキシートの三人のみである。
上記の様に、アメリカでの人気は高く、ジャイアント馬場と共に『本当の意味で、アメリカマット界で成功した日本人レスラー』とも言われており、人気・知名度共に日本人レスラーの中でトップと言えるほどである。
過去の試合では試合中にバックステージに退場して武藤からムタに変身した試合が1度、ムタから武藤に変身した試合が2度ある。
[編集] 黒師無双
武藤敬司第3の化身。2001年8月19日に宮城ニューワールド屋外駐車場特設リングで行われた、みちのくプロレスの「LOVE みちのく」仙台大会に白使と組んで初登場し、ヒロ斎藤、後藤達俊のタッグにムーンサルトプレスで勝利した。全日本プロレスには2002年5月1日に初見参。白使と組み、愚零斗孤士、ジョージ・ハインズ組に閃光魔術で勝利する。
武藤自身が使う技に加え、毒霧や白使が使用する念仏パワーボム、拝み渡りといった技も使用する。膝が悪いにもかかわらず拝み渡りを成功させる点に関しては流石としか言いようがない。
なお、新日本プロレス時代は黒「使」無双のリングネームだったが、全日本プロレスに移籍してからは黒「師」無双と名前を変えている。ギミックのモチーフは上記の白使と武藤の好きな麻雀の役名から。白使と違って体にはお経ではなく「Pro-wres Love」など英語の文章が書かれている。
[編集] 入場曲
他の闘魂三銃士や四天王が入場曲をほぼ固定化しているのに対し、武藤は頻繁に入場曲を変更している。しかし、殆どの曲がファンの間で認知されている事が武藤がどの時代にもプロレス界にインパクトを与えてきた事の証明であり、武藤の「天才」たる所以であろう。
- 武藤敬司
- チャンピオン鷹
- THE FINAL COUNTDOWN/EUROPE
- HOLD OUT/鈴木修
- TRIUMPH/アンドレ・アンダーセン(ロイヤル・ハント)
- nWo TRIUMPH
- OUTBREAK
- TRANS MAGIC(現在も使用中)
- 前奏後、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンの入場曲と同じくガラスを割る音が挿入される。
- グレート・ムタ
- MUTA/鈴木修
- HOLD OUTの和風アレンジ曲。
- 愚零闘武多協奏曲
- TRIUMPHの和風アレンジ曲。
- MUTA摩天楼
- MUTA賛美華
- 黒師(使)無双
- 黒使無双
- 黒師戯曲
[編集] エピソード
かつては、ドラマや映画『光る女』などにも出演したほどのハンサムな顔立ちで、今までのプロレスラーにありがちな、ワイルドな雰囲気ではなく、普段は穏やかでセンスの良さを感じさせるキャラクターである。先のグレート・ムタの項にも述べられているが、かつて今の夫人と交際中に彼女の両親を試合に招いた際、悪逆非道を尽くすムタを見た両親が、夫人と武藤との結婚に反対した話は有名。また、現在のような、スキンヘッドにした当初、それを見た彼の子供が泣き出したという逸話もある。スキンヘッドにした理由は本人曰く「ビル・ゴールドバーグやストーン・コールド・スティーブ・オースチンを意識した」との事だが単純に髪が薄くなったためとの説が有力(実際にデビュー当初より髪が薄く、激戦になって汗をかくとカッパのように頭頂部が見えていた)。スキンヘッド初登場は2000年12月31日の猪木祭(大阪ドーム)にて武藤、高田延彦対ドン・フライ、ケン・シャムロック戦の試合で、武藤は高田とお揃い(色違い)の頭部をすっぽり覆うフード付きのガウンを身に纏う。なかなかガウンを脱ごうとせず、フードに隠れ顔すら見せようとしない武藤であったが、自分のコールの際にスキンヘッドをさらけ出す(その際ビッグサプライズの観客の声をよそに、つるつるになった頭部を触りながらとぼけた顔をしていた)という一幕があった。
CSのサムライの番組で「おれは木村健吾さんの付き人で楽でよかった、あの人は怒らないから。」とコメントし、周りを笑わせた。
アメリカ修行からの帰国直後(オレンジ・ショートタイツ時代)にリングネームを募集したことがあるが、良いものが無く、結局本名の武藤敬司でいくことにした。当時の試合中に辻よしなりがそのエピソードを紹介した。
三銃士で猪木とのシングル戦を実現させたのは武藤のみであった。
2002年全日の移籍理由に「組織を一つの大きな石だとすれば、今の新日本は違う方向に押しあっている、しかし横を見ると一斉に同じ方向に持ち上げようとしている団体がある、そりゃ手伝いたくなるじゃないですか」と名言的なコメントを残す。
渕正信もコメントしたが全日に移籍して武藤は数倍仕事している。新日時代の終盤は限定出場だったが、全日に移籍して悪い膝を抱えながらも社長の責任としてフル出場している。
ものまねタレント・神奈月が彼のマネを得意にしており、彼のモノマネは見た目だけではなく、声や話し方もきわめてよく似ている。ものまねバトルにて武藤本人が登場した際、武藤にドラゴンスクリューやエルボードロップなどをやられた神奈月はひどく脅えていたが、真っ赤になった背中を「凄く嬉しいですよ。家宝ですよ家宝」と叫んでおり、大ファンであるようだ。2006年3月21日に後楽園ホールで行われたファン感謝祭でタッグマッチで武藤と神奈月のリング上での共演が実現した(相手は小島聡&三沢のものまねをしているイジリー岡田)。武藤はハッスルに対して「ふざけた試合だけはやらないで欲しい」と東京スポーツのインタビューで語ったことがあるように、レイザーラモンHGに代表される芸能人がプロレスのリングに上がることを敬遠していた時期もあったが、神無月やイジリーのようにプロレスをリスペクトしている芸能人とならばリングに上がってもいいという考えに変わっているようだ。またタレントはなわの歌う『武藤敬司の歌』という『ガッツ石松の歌』をアレンジして出来た歌がある。またアンガールズがネタのブリッジとして踊る「ジャンガジャンガ」の動きは、武藤のプロレスLOVEのポーズをもじったものであり、TV番組内で武藤に事後承諾を得た。
麻雀が好きで、『THEわれめDEポン』等の麻雀番組にも、たまに出演している。武藤は新日本所属時、坂口征二に可愛がられていたが、「あれはよく一緒に麻雀を打ったから」と述懐している。また、プレイステーション2のゲームソフト『プロ麻雀・極(きわめ)NEXT II』にも登場している。
意外にも達筆であり、『ワールドプロレスリング』内で、毛筆で写経する武藤の姿が映し出されたことがある。
闘魂三銃士の中でもプロレス以外のテレビ等にはあまり出る事も無いが、以前(1994年あたりか)日本テレビの土曜日のゴールデンの2時間枠の47都道府県の変わった名物や風習などをとりあげる番組(司会は福沢アナ)に出身地の山梨県代表で出演した。(隣の席は岐阜県代表の清水ミチコだったか。また長崎県代表は議員になる前でFMWで死闘を繰り広げていた当時の大仁田厚)また武藤敬司は文化放送でDJの経験もあり(1997年あたりの土曜夕方で半年ぐらい続いた番組)独特のとぼけた味を出していた。
結婚後も「好みの女性タレント」の欄に西田ひかる、内田有紀としばらく答えていた。
以前TOKIOの山口達也が目黒の「リベラ」というステーキ屋に飾ってある武藤の色紙を見て「あっ俺この武藤さんによく似てるって言われた」と話していた(スキンヘッド以前の武藤)。
NHK大河ドラマ『武蔵』における宝蔵院の僧役をはじめ、いくつものTVドラマ出演もある。若手時代には毎度おさわがせしますIIIに藤波と出演した。
2003年5月3日TBS系で放送された『ラブセン!』で、武藤敬司の豪邸を紹介、本人がカメラで家の中を撮ってまわる企画があった。
月9ドラマ『西遊記』(フジテレビ2006年1月~2006年3月)にて、第四巻「砂漠の国」の主要人物岩傑役でゲスト出演し、俳優としても非凡な才能を発揮した。
CS放送『FIGHTING TV サムライ』の「武藤敬司 プロレスの砦」(以前はレギュラー、現在は不定期に特番にて放送)はゲストとのトーク番組であり、ゲストはプロレスラーの時もあるが、芸能人がかなり多く、どんなゲストにも物腰の低い丁寧な言葉づかいでもてなす姿は武藤の性格を現しているが、安岡力也がゲストで現れた時は「二人で何かドラマか映画をやって芸能界に旋風を吹かせようぜ」といった意味深なトークで意気投合する二人がいた。
2006年11月10日から始まる東海テレビでのレギュラー番組、『武藤敬司のスポーツ大百科』に編集長として出演。プロレスラーで選手名が冠に付いた地上波の番組はこれが初めてである。