汎スラヴ主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
汎スラヴ主義(はんスラヴしゅぎ、ロシア語: Панславизм, ポーランド語 : Panslawizm)とは、スラヴ民族の連帯と統一を目指す思想運動である。19世紀初め、西スラヴ人・南スラヴ人諸民族の民族的覚醒とともに生まれた。ロシア帝国が盟主。1848年プラハで汎スラヴ会議が開催され、オーストリア領内におけるスラヴ民族の地位向上を図った。
ドイツに汎ゲルマン主義が生まれるとロシアも対抗策として汎スラヴ主義を推進する。1867年にモスクワで第一回汎スラヴ会議が開かれ、スラヴ民族の結束を呼びかけたが、ロシア正教会・ロシア語への統一を打ち出したロシアに対して他のスラヴ諸国は反発し、カトリック国のポーランド(ポーランド立憲王国)は初めから除外対象となっていた。ロシア・トルコ戦争(露土戦争)の際にはロシアの南下政策を正当化する材料となった。
1917年のロシア革命以降はソヴィエト政府が単一民族優位主義を否定したため汎スラヴ主義はいったん衰退するがナチス・ドイツに対抗するためヨシフ・スターリンの提唱により1941年6月モスクワに汎スラヴ委員会を設置する。
戦後の1946年、ベオグラードにて汎スラヴ会議が開催され、ロシアが一時的に全スラヴ民族の盟主となったがユーゴスラヴィアの離脱によって終焉を迎える。
目次 |
[編集] 汎スラヴ主義の影響を受けた国
[編集] ギリシャ王国
1830年独立。独立戦争をロシアが支援したことから、汎スラヴ主義による独立国家の草分け的存在となった。1912年マケドニア地方、1920年トラキア南部を取得し現在の国境がほぼできあがる。
[編集] ルーマニア
1878年独立。1918年にトランシルバニアを獲得するが、1940年に北部モルダヴィアをソ連邦に奪われたため第二次世界大戦では枢軸国側についた。ソ連の軍事力の前に降伏を余儀なくされるが、イタリア王国と同様1944年から連合国側につき、国際法上の戦勝国となる。しかし、ソ連に敗れたこともあってモルダヴィア奪還はならなかった。
[編集] セルビア
1878年独立。1918年、オーストリアから南部の領土を割取してユーゴスラビア王国を建設した。セルビア民族主義色の強い国内体制をつくったため、1940年代にはクロアチアに一時独立を許すこととなる。1940年代の一時期、ユーゴスラビア王国政府そのものが日独伊三国軍事同盟に加盟していたこともあったが、国内から強い反発があり早期に脱退。直後枢軸国に分割占領されたが、チトー率いるパルチザンが祖国解放に活躍。戦後社会主義国ユーゴスラビアとしてクロアチアとの共存関係を回復した。
[編集] モンテネグロ
1878年独立。1918年ユーゴスラビアに併合され、21世紀に至るまでセルビアと共存関係を続けていたが2006年に再び独立した。
[編集] ブルガリア
1908年独立。1878年のベルリン会議では自治権の獲得にとどまり、独立の機会を逸した。1908年マケドニア地方テッサロニキで勃発した「青年トルコ革命」に便乗し、完全な自立を達成した。第一次大戦に敗れたため、領土の一部をギリシャに割譲した。1940年枢軸国として第二次大戦に参戦し敗北。ソ連軍の占領下で1944年社会主義国として再スタートを切った。
[編集] チェコ・スロヴァキア
第一次世界大戦中にオーストリアからの独立をめざし、1916年ロシアに自主投降。降伏後チェコ兵はシベリア鉄道で東方に向かったが移動中に「ソビエト政府はオーストリアと停戦交渉している」旨のデマが流れ反乱が発生。ソビエト連邦政府は赤軍を動員してこの反乱を鎮圧しようとした。日・米・英・仏はこれを干渉戦争の口実に利用した。チェコ・スロバキアは1938年ナチスによって独立を奪われる。1945年ドイツの降伏で独立を回復し、1948年から社会主義国家となった。
カテゴリ: ロシア帝国 | ソビエト社会主義共和国連邦 | 19世紀のヨーロッパ史 | 20世紀のヨーロッパ史 | バルカンの歴史