白洲次郎
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白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本の実業家。終戦直後GHQ支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、貿易庁(通産省)長官等をつとめる。独立復興後は、東北電力会長等を歴任した。夫人は、作家・随筆家の白洲正子。
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[編集] 概要
1902年(明治35年)2月17日兵庫縣武庫郡精道村(現・兵庫県芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。後に大日本兵庫縣川邉郡伊丹町(牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』 より引用)(現・兵庫県伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居。
白洲家は、摂津国三田藩(現、兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵(1828年、文政12年7月15日現・兵庫県三田市屋敷町にて出生。父は白洲文五郎(曽祖父)、母(曽祖母)は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳家の家老黒石氏の娘、里子)は、三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また、神戸ホーム(神戸女学院((Kobe College:KC))の前身)の創立にも尽力した。父文平は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績を経て綿貿易で巨万の富を築いた。
1919年(大正8年)旧制第一神戸中学校(現、兵庫県立神戸高校)を卒業。神戸一中時代は、サッカー部・野球部に所属し、手のつけられない乱暴者として知られ、当時すでにペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し、後のカーマニア・「オイリー・ボーイ」の片鱗を見せていた。
同級生には、後に作家で文化庁長官となった今日出海、中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。
妻、白洲正子は随筆家、長男(第一子)白洲春正は元東宝東和社長、次男(第二子)白洲兼正、長女(第三子)白洲(現姓:牧山)桂子は旧白洲邸・武相荘館長。
[編集] イギリス留学
神戸一中を卒業しイギリスに留学。ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し、西洋中世史、人類学などを学ぶ。自動車に耽溺し、ブガッティやベントレーを乗り回す。7世ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称:ロビン)と終生の友となる。ロビン・ビングとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでの欧州大陸旅行を実行している。1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業。1928年(昭和3年)父の経営していた白洲商店が倒産したため、帰国を余儀なくされる。
[編集] 帰国
1929年(昭和4年)、英語新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となる。友人樺山丑二の紹介で妹の正子と知り合い、京都ホテルで華燭の典を挙げた。[1]その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役を歴任する。この間、海外に赴くことが多く、駐イギリス大使であった吉田茂の面識を得、英国大使館をみずからの定宿とするまでになった。また、この頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動すると宣伝されているが当代の碩学の揃った「朝飯会」では無論、端っこにいる存在である。
[編集] ヨハンセン・グループ
1940年(昭和15年)来るべき日米戦争を予感し[2]、事業から手を引き、鶴川村・武相荘(ぶあいそう)に隠棲。カントリー・ジェントルマンを自称する。食糧不足に対処して農業に励む日々を送る一方で、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し、ここから白洲の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。
1942年東京都南多摩郡鶴川村(現、東京都町田市鶴川)へ転居し、農業に従事した。
[編集] 終戦連絡中央事務局
1945年(昭和20年)東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣に就任した吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。ここから、白洲次郎の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を向こうに回した戦いの火蓋が切られる。白洲は、GHQ/SCAPに対して当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、英国仕込みの流暢な英語(白洲は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめた。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、プレゼントがぞんざいに扱われたために憤激して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝った。GHQ/SCAP民政局長のコートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲した、などGHQ/SCAPとの交渉の間に生まれたエピソードは数多い。
[編集] 憲法改正
同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQ/SCAPの拒否にあった際に、GHQ/SCAP草案(マッカーサー案)を提示されている。白洲は、2月15日にGHQ/SCAP草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡(いわゆる「ジープウェイ・レター」※ホイットニーからの返事が国会国立図書館に保存されている。紹介ページ。)を出し時間を得ようとするが、これは、GHQ/SCAPから不必要な遅滞は許されないと言明される。1946年3月に終連次長に就任。8月経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)終連次長を退任する。
[編集] 貿易庁初代長官
1948年(昭和23年)商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。経済復興には輸出振興が必要であるとし、通商政策の強化を目的とし、商工省を改組し、通商産業省設立の中心的役割を果たした。これはGHQ/SCAPの圧力を利用した通産省の池田派占有のロビー活動でしかなかったと批判されつづけている。1950年(昭和25年)講和問題で、池田勇人蔵相、宮澤喜一蔵相秘書官とともにアメリカに渡り、ジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約の準備を開始した。
1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、英語から日本語に直し、沖縄の施政権返還を内容に入れさせた。吉田退陣後は、政治から縁を切り、実業界に戻る。
[編集] 実業界へ復帰
既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた白洲は、1951年5月に東北電力会長に就任する。昭和34年(1959年)に退任するまで、精力的に動き福島県奥只見ダムなどの建設を推進した。東北電力退任後は、荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。
[編集] ゴルフ
白洲は、日本ゴルフ界を語るには欠かせない人物でもある。白洲がゴルフを始めたのは、本人によると14、5歳の時からで英国留学中はゴルフはしなかったが、帰国してから熱中した。昭和51年(1976年)軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事に就任。メンバーは皆平等、ビジターを制限し、マナーにことのほか厳しく、「プレイ・ファスト」を徹底させた。1982年(昭和57年)同倶楽部理事長に就任する。
田中角栄に対しては、クラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは、合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。白洲は、田中に対してはその人物を認めつつも、余りに金銭的に苦労したことを惜しんでいた。
頭の固い頑固者でなかった事は、中曽根康弘とSPが立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ、「なんだ?バードウオッチングか?(中曽根は当時政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた)」と強烈に皮肉った事でも明らかなとおり、ジョークのセンスもなかなかのものであり、頭は柔らかいがうるさがたの爺様だったようだ。
[編集] 親友との再会
親友ロビン・ビングとは、互いに祖国が戦争状態に入るという不幸な時期を経て、1952年(昭和27年)ロンドンで再会を果たした。最後にロビンと会ったのは1980年(昭和55年)のことであった。
[編集] 死去
80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、ゴルフに興じていたが、1985年(昭和60年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。享年83。墓所は兵庫県三田市。正子夫人と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。
[編集] オイリー・ボーイ
白洲の車好きは有名である。英国留学中にベントレーやブガッティを乗り回し、オイリー・ボーイと呼ばれていた。
[編集] 主な車歴
- 1919年型ペイジ・グレンブルック
- 1924年型ベントレー3リッター-英国留学中に所有。後にエンジンを4.1/2リッターに載せかえるなどされたが、その後日本に持ち込まれ、現在は株式会社ワク井商会が所有している。紹介ページ
- ブガッティ・タイプ35-英国留学中に所有。英国に現存。
- ランチア・ラムダ
- ハンバー・ホーク
- ランドローバー
- 1960年型メルセデス・ベンツ450
- 三菱・ミラージュ(晩年、ショーファードリブンとして使用していた)
- トヨタ・ソアラ
- スバル・サンバー
- 1968年型ポルシェ911S-晩年の愛車。1968年式のエンジンは本来2リッターだが、2.4リッターのものに換装された。トヨタソアラ(2代目)開発の為に寄贈(無理矢理預けたようであるが)。
[編集] エピソード
- 身長185センチ、容姿端麗、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある。話題性のある彼だが、注目されだしたのはつい近年のことである。[3]
- 日本人で初めてジーンズを穿いた人といわれている。長い足に映えた。ラッパズボンも愛用しこれも似合った。
- 晩年の白洲が政治家として最も評価していたのは宮澤喜一であったが、白洲正子は、これを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。
- 『夜の蝶』(1957年)の主人公、白沢一郎(コロンビア大卒の前国務大臣。イラン石油輸入権を持ち政界に多大な力を持つ富豪。)のモデルは白洲次郎である。
- 田中角栄とのエピソード
- 当時、首相であった田中角栄が次郎が理事を務めるゴルフクラブでプレイをしたいと秘書らしき若者から挨拶があった。
「これから田中がプレイしますのでよろしく」
「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」と次郎。
「総理の田中です」
「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」
「いえ、会員ではありませんが、総理です」
「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」
次郎はそう言いそっぽを向いた。
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえも、一歩も引かなかった。
首相であろうと誰であろうと、ルールを守るということを第一にしたのだ。
しかし、次郎はその田中角栄に対しても、やはり公平な物の見方をした。
ロッキード事件が起こると、新聞は「容疑者の田中は・・・」と書きたてた。次郎は新聞社の社長に向かって言った。
「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は四年前彼を今様太閤として、戦後日本が生んだ英雄とおだてていました。今、容疑者田中と書くなら、なぜその前に"本誌はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした"、とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか」
と言った。
[編集] 名言集
- 「You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideas. Jon」(正子と交際中に送った手紙。※Jonは次郎のことである。)
- 「お嬢さんを頂きます。」(正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父、樺山愛輔に言った台詞。)
- 「ネクタイもせずに失礼。」(新婚当初、正子との夕食の席で。)
- 「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」(GHQによる憲法改正案を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、鶴川の自宅に帰ったときに河上徹太郎にはき捨てた台詞。)
- 「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」(ケンブリッジ大学に留学した理由を問われて。)
- 「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」(『頬冠をやめろ-占領ボケから立直れ』白洲次郎 より引用)
- 「私は、<戦後>というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて<戦後>は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』白洲次郎 より引用)
- 「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(『諸君』9月号1969(昭和44)年)
- 「わからん!」(白洲正子の『西行』を読んで。)
- 「一緒にいないことだよ」(夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて。)
- 「相撲も千秋楽、パパも千秋楽。」(晩年、前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女((第三子))の((現姓・牧山))桂子さんに向かって。)
- 「右利きです。でも夜は左。」(入院した病院で看護婦に「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。※ちなみに"左利き"とは"酒飲み"という意味を持つ。)
[編集] 脚注
- ↑ 樺山正子との婚姻届は兵庫縣川邉郡伊丹町役場に提出されている。
- ↑ 夫人の白洲正子によれば、臆病なので空襲をおそれてとのこと。
- ↑ 2006年4月にNHK番組「その時歴史が動いた」で白洲次郎のことが放送された。
[編集] 参考文献
- 牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』新潮社、2004年9月、ISBN 4106021188