清寧天皇
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清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年(444年)? - 清寧天皇5年1月16日(484年2月27日))は、第22代の天皇(在位:清寧天皇元年(480年)1月15日 - 同5年(484年)1月16日)。名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
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[編集] 系譜
雄略天皇の第三皇子。母は、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。 后妃なし、従って皇子女もなし。
[編集] 皇居
都は磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地)。
[編集] 略歴
生来白髪であったことから、父の雄略は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年(479年)8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年(480年)正月に即位。
子がいなかったことを気に病んでいたが、清寧天皇2年(481年)、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、使者を立てて明石に迎えさせる。翌年(482年)2王を宮中に迎え入れ、億計王を立太子に、弘計王を皇子とした。
5年(484年)正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。
なお、「生来白髪であった」とされている事からアルビノ体質だったという説もある。
[編集] 陵墓・霊廟
河内坂門原陵(かわちのさかとのはらのみささぎ)に葬られた。
大阪府羽曳野市西浦6丁目の西浦白髪山古墳(前方後円墳・全長112m)に比定されている。
[編集] 関連項目
歴代天皇一覧 | |||||||||
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