石澤常光
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石澤常光 | |
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プロフィール | |
リングネーム | ケンドー・カシン 石澤常光 ケンドー・カ・シン |
本名 | 石澤常光 |
ニックネーム | 問題児 覆面知能犯 |
身長 | 180cm |
体重 | 90kg |
誕生日 | 1968年8月5日 |
出身地 | 青森県南津軽郡常盤村 |
所属 | フリー |
スポーツ歴 | アマチュアレスリング |
トレーナー | 馳浩 |
デビュー | 1992年 |
石澤 常光(いしざわ ときみつ、1968年8月5日 - )は、日本の男性プロレスラー、総合格闘家。プロレスの試合においてはマスクを装着し、ケンドー・カシンを名乗るが、総合格闘技においては本名の石澤常光を用いる。奔放なファイトスタイルとは裏腹にアマレスに裏打ちされた確かなレスリング技術を持ち、ウィットに富んだ破天荒な行動で多くのプロレスファンから注目を集める「問題児」。
入場テーマ曲:『Skywalk』
目次 |
[編集] 経歴・戦歴
青森県南津軽郡常盤村(2005年3月の市町村合併により現在は藤崎町)出身。父は同村の村長を務めた石澤善成である。4人兄弟の三男。早稲田大学人間科学部卒業。
レスリングで全日本学生選手権3連覇、全日本選手権優勝を果たし、新日本プロレスのアマチュアレスリング部門「闘魂クラブ」に入団。根っからのプロレスファンで、学生時代にはしばしば練習を休んで観戦していたという。その後、1992年4月に正式に新日本プロレスに入門してプロへ転向。石沢常光のリングネームで、金本浩二戦でデビューした。
素顔でのデビュー後、1996年に第7回ヤングライオン杯に優勝。この際、セレモニーで手渡された小切手ボードを半分に折り、決勝で破った永田裕志に渡して健闘をたたえるという、後のカシンからは想像もできない振る舞いを見せている。
、同年7月に欧州遠征へ出発。その際、現地のプロモーターであったオットー・ワンツの要請を受け、マスクマン「ケンドー・カ・シン」となる(後に"カシン"に改名)。ワンツ命名のこのリングネームの由来については剣道と家臣から来ているとも言われているが実のところはカシン本人もわからないらしい。一説によると香港の資産家であり、企業乗っ取り屋として欧州でよい印象をもたれていない「リ・カシン」一族に由来するようだ。帰国後の凱旋試合においてマスク姿を一部観客に笑われたことに臍を曲げ、「ならばこのままずっとマスクマンとしてやってやろうじゃないか」と腹を決めたと言われている。以降、ベビーフェイスにもヒールにも属さない一匹狼的な存在として、新日本のジュニア戦線をかきまわす"異端児"としての存在感を強めていく。
1997年10月16日の新日本四日市興行の試合後、「俺は別にいつ辞めたっていいしね。全然プロレス界に必要な人間じゃないし。潰すか潰されるか、それだけだ。」とマスコミに言い放ち、業界に衝撃を与える。このころから試合そのものはもとより、試合後のマイクアピールや取材時における掟破りなコメントが一部コアなファンの支持を集め始める。
1999年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニア6に優勝。賞金として100万円を獲得したが、小切手(型のボード)を真鍋由アナに投げつけ、「お前これ、換金して寄付しとけ、ネコババするなよ!」と発言。「どこにですか!」と叫ぶ真鍋に「(当時紛争状態にあった)コソボだよ、コソボ!」と言ったというエピソードがある。全額寄付したと言われているが、実際は半額だったという説もあり、ある意味カシンらしい面がうかがえる。
2000年8月、総合格闘技イベントPRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーを務めるアントニオ猪木の命により、マスクを脱ぎ、石澤常光のリングネームで「PRIDE.10」へ出場。ハイアン・グレイシーと対戦するがパンチのラッシュでKO負けを喫した。しかし「PRIDE.15」で再戦し、勝利している。
2000年12月31日、イノキボンバイエにおいて桜庭和志とプロレスルールで対決。両者は1995年の新日本対UWFインターナショナル全面対抗戦において、タッグマッチ、シングル戦を一回ずつ行っている(当時は覆面ではない)。二度ともカシンの勝利だが、三度目のイノキボンバイエでの対戦ではプロレスでは極めて珍しいかたちの腕固めで敗れた。試合後のインタビューでは「この試合を振り返って如何ですか?」との問いに「俺に振り返させるなよ! お前が振り返ろよ!」と答えた。
2001年10月8日、東京ドーム大会での成瀬昌由とのIWGPジュニアヘビー級タイトルマッチにおいて、飛びつき逆十字でわずか26秒で勝利を収める。
2001年12月31日、イノキボンバイエで正道会館の子安慎悟を相手に総合格闘技の試合を行なう。この対戦は引き分けに終わるが、アントニオ猪木によって準備期間なしに格闘技の試合へ度々出場させられたことは、その後のカシンの新日本プロレス退団の伏線となっていった。
2002年に武藤敬司、小島聡と新日本プロレスを退団し、全日本プロレスに入団した。しかし、度重なる無断欠場(全日本がギャラを払えず呼べなかっただけという説もあり)や世界タッグ王座封印発言などを理由に、2004年7月1日付で全日本プロレスを解雇される。これはカシン自らクビにしてくれと言ったという説もあるが、永田裕志とのタッグで獲得した世界タッグのベルトを事実上「持ち逃げ」していることなどから、全日本サイドとの間でなんらかのトラブルがあった可能性も囁かれている(後述)。
全日本退団後はリキプロなどにスポット参戦したのち渡米。新日本ロス道場でコーチとして後進の指導に当たりながら、アメリカの団体ROHに参戦。「ドラゴン・ソルジャーB(Bは「バカ」との意)」なるリングネームで参戦。アメリカの団体のファンに通じるはずのない「ホーッ!」などの中西ネタを一人で披露するなど、どの団体でもカシン節はかわることはない。同団体のジュニア・ヘビー級のトーナメントで優勝を飾るが、それ以外にも、ヨーロッパのプロレス団体にも短期間参戦した。2005年4月、大学時代から長年に渡ってバカにし続けてきた中西学と電撃和解を果たし、永田裕志、藤田和之とともに「チーム・ジャパン(TJ)」を結成。ファンを大いに驚かせる。更にTJ内で中西とお揃いの迷彩コスチュームのタッグチーム「ワイルド・ソルジャーズ」を結成。これを機にヘビー級へ本格転向し、夏のG1クライマックスに初出場を果たす。決勝進出はならなかったが、予選で川田利明を破った。
2006年3月15日に、前田日明がスーパーバイザーを務める総合格闘技大会「HERO'S」に急遽参戦が決定し、約4年3ヶ月ぶりに総合格闘技の試合を行なった。秋山成勲の袖車によりギブアップ負けを喫する。同年10月にもHERO'Sへ出場。カーロス・ニュートンと対戦したが22秒でKO負け。
[編集] 得意技
- 雪崩式飛びつき腕ひしぎ十字固め
- カシン式タランチュラ
- ビクトル式腕ひしぎ十字固め
- ネックブリーカードロップ
- カンパーナ
- 滞空ブレーンバスター
- エルボースマッシュ
- キャメルクラッチ
- ローリングクレイドル
- KVニーロック
- 凶器、金的等の反則技
- レフェリーを使った人間盾
- 握手
[編集] タイトル履歴
- IWGPジュニア・ヘビー級王座(第34代)
- IWGPジュニア・タッグ王座(第2代、&ドクトル・ワグナーJr.)
- 世界ジュニアヘビー級王座(第20代)
- 世界タッグ王座(第50代*パートナーは永田裕志)
- CWA世界ジュニア
- EWP インターコンチネンタル
[編集] 人柄
- Pride15でハイアンにリベンジを果たした直後、コメントを求めて控え室に詰め掛けたテレビクルーに対し、マスクを被った上で「石澤はもう帰ったからオレが代わりに来た。」と述べるなど、「カシン」と「石澤」の切り分けを非常に大切にしている。プライベートの場でサインを求められた場合は「石澤」とサインするという話もある。
- マスク着用時の傍若無人さとは対照的に、素顔の際の礼儀正しさには定評があり、業界内にもファンが多い。また、女性ファンが多いことでも知られる。
- プライベートを一切明かさない、サインをほとんどしないなど、ブログなどを開設するレスラーも多い昨今では珍しくミステリアスさを保っている。
- 同期の中西学とはある時は「犬猿の仲」。ある時は「親友」と自ら言って憚らないが、試合後のインタビューでは訊かれてもいないのに中西の話をし始め弄り倒す事がしばしばで、新日本離脱後もそれは続いた。中西がP4メッセージを発信すると自らも「Problem360°」(当時の中西の入場曲「No Problem」に由来)というメッセージを発信、入場曲の出だしに「Problem」というアナウンスをいれた。新日本在籍時は中西と仲のよかった成瀬昌由にも被害はおよび、成瀬が長い巡業から自宅に帰ると留守電がカシンからのメッセージ(ほとんどが中西関連)で埋め尽くされていたという。中西が新日本プロレスでの若手時代をコメントした内容によると(インタビュー)、中西が「雑用をしなければいけない日に遅刻(中西はレスリング五輪出場者として特別待遇で寮生活ではなかった)。生真面目な石澤が激怒した」ことからはじまるらしい。
- 成瀬の留守電には、「俺だ。カシンだ。石澤が大晦日に子安と対戦することになった。セコンドについてやるように!」と命令が入っていたらしい。この試合で、甲斐甲斐しくセコンドを務める成瀬は石澤とは仲がよく、カシンとは仲が悪いとのこと。
- 大のマスクマニアとしても有名。平田淳嗣にスーパー・ストロング・マシンのマスクをくれるように懇願し手に入れた事もある。自身のマスクのバリエーションも豊富で、ストロング・マシンとカシンのデザインを半分ずつあしらった「ストロング・カシン」や、魔界倶楽部が活躍していた頃には魔界マスクのデザインをあしらったマスクを使用していた。
[編集] 世界タッグベルト返還訴訟
全日本プロレスが、同社が管理する世界タッグ王座のベルトの返還に応じないとして、元所属選手であるカシンに対し、2005年8月2日付でベルトの返還を求める民事訴訟を東京地裁に起こした。
タッグパートナーの永田は王座剥奪時に全日本側の要請に応じてベルトを返還しているため提訴の対象となっていない。剥奪後、全日本は王座決定戦を行い、太陽ケア、ジャマール組を正式な王者として認めた。現在はジャマールのWWE復帰により返上され、王座は空位となっているが、永田が返還したベルトのみで王座戦を行っていた。
カシンは「王者になればベルトはもらえると思っていた。すべてはベルトを欲しがった永田君が原因。私は踏み台男の踏み台にされました。」などといつも通りのカシン節を披露。騒ぎに同調ないしは悪乗りするプロレスメディアやファンがいる一方、一部ファンからは「権威も歴史もあるベルトをもてあそんでいる」との批判の声も挙がった。
さらに、同じTJ内に一緒にベルトを獲った永田がいるにも関わらず、「王座は永田から中西に譲渡された」とし、パートナーを中西に変更して10月8日の新日本・東京ドーム大会でのチャーリー・ハース、マーク・ジンドラック組との試合を「世界タッグ王座の初防衛戦」として強行する構えも見せていたが、結局はカシンが2本のベルトを肩にかけて入場するに留まった。
初公判は10月5日に行われ、全日本側は早期和解を求めたが、カシン側は「ベルト獲得後に全日本に試合を組んでもらえなかったことが原因」とし、あくまでもリング上での決着を求めたため物別れに終わった。この日の公判において、全日本とカシンとの間にもともと選手契約が結ばれていなかったことなどが明らかとなり、全日本の選手管理の杜撰さを露呈する結果ともなった。その後石澤カシンともに入場するときには武藤久江対ケンドー・カシン裁判Tシャツを必ず着用している。
その後、東京スポーツによるとカシン側の弁護士がカシンの行動に呆れて弁護人を辞めたことで事態は一変。2006年4月末に着払いでベルトが返還されたと報道されているが、全日本側の公式発表はない。
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