ロシアの歴史
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ロシアの歴史を通観すると、東ヨーロッパのスラヴ人居住地帯の中の辺境であったルーシの地に多くの公国が興ったことによって、さらにその辺境であった北東ルーシの地から興ったモスクワ大公国がルーシのみならずウラル、中央アジア、シベリアから極東のオホーツク海沿岸まで広大な地域を飲み込むことによって形成された国家の発展の歴史としてとらえられ、歴史の叙述はそのような順序で述べられることになる。しかし、実際にはルーシからはウクライナ人、ベラルーシ人など、ロシア人と別の民族意識を確立して現在のウクライナ、ベラルーシなどの諸国を形成した人々がおり、また中央アジアやシベリアにはスラヴ系の東方正教会信徒であるロシア人とは異なった民族の起源を有する様々な人々が、独自の伝統と歴史を歩んできた。ロシア史として記述される歴史は、ロシアという国家の単線的な歴史であると同時に、歴史上ロシアに内包されたり、かかわりをもったりしてきた様々な人々が出入りする複雑な歴史でもある。
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[編集] 概史
[編集] ルーシ以前
現在のロシア連邦のヨーロッパ部分の西部と、ウクライナの北部、そしてベラルーシにあたる地域には、ゲルマン人の東方への移動後、東スラヴ人と呼ばれるスラヴ人の一派が居住するようになっていた。スラヴ語を話し、森林地帯での素朴な農耕生活を送っていた彼らの西にはバルト諸語を話す人々、東や北にはフィン・ウゴル諸語を話す人々が彼らと同じような生活を送っており、南の黒海北岸のステップは様々な言語を話す遊牧民の天地であった。やがてこの地域の遊牧民の多くは言語的にテュルク系に同化し、突厥の大帝国が崩壊した後は、ヴォルガ川の下流でハザール可汗国を形成した。
やがて、西ヨーロッパでフランク王国などのゲルマン人の王国が形成された頃、北西のスカンディナヴィア半島でノルマン人たちが活動を活発化させ始めた。海賊・侵略行為のみならずバルト海・北海での交易に携わったノルマン人は、その航海技術を生かし川をつたって黒海に出て、はるか南の東地中海地域で経済的に繁栄する東ローマ帝国との交易にも乗り出し、またハザールを経由したイスラム帝国の交易も盛んに行われていたために、これらの二つの交易ルートを通して東スラヴ人たちはノルマン人とハザール人の影響を受けて国家の形成に向かい始めた(ヴァリャーギからギリシアへの道)。
[編集] キエフ・ルーシ
後の時代のルーシ人が残した年代記によると、862年にノルマン人のリューリクが交易都市ノヴゴロドの公(クニャージ)となり、リューリクの一族が東スラヴの居住地域に支配を広げていく過程で、東スラヴ人の間でいくつかの国家が形成され始めた。これらの国々があったこの地域は、リューリクの属する部族ルスの名前にちなんでルーシと呼ばれるようになるが、このルーシという地域名が、のちに「ロシア」という国名と結びつけられるようになる。しかし「ロシア」という言葉は、中世時代のギリシア人がルーシに対して使った言葉であり、ルーシ人が自分たちの国を「ルーシ」と呼んでいた。やはり年代記の伝えるところによると、882年にリューリクの子イーゴリは一族オレーグの助けによりドニエプル川中流の交易都市キエフを征服し、キエフをルーシの中心に定めたという。史実としての真偽はともかくとして、バルト海に近いノヴゴロドからキエフを経て黒海に出る道が同じ一族に属する支配者の手によって統合された。オレーグとイーゴリは周辺の諸部族の間に勢力を広げ、イーゴリを始祖とする歴代のキエフ公のもとにルーシへと国家権力を形成していった。
10世紀末にはキエフ公のウラジーミル大公が東ローマ帝国からキリスト教を受容してルーシは国をあげて東方正教会の信徒となり、スラヴ語を書きあらわすための文字としてキリル文字がもたらされるなど、正教世界の進んだ文化がルーシへと取り入れられていった。また、ウラジーミルは依然として様々な勢力が入り乱れていたルーシをキエフ公国のもとにほぼ統一することに成功するが、同時に息子たちの間に支配下の都市を分封して公に立てたために、これ以降、ルーシは本家筋であるキエフ公国を盟主としつつも、リューリク・イーゴリ兄弟を始祖とするリューリク家の成員を公とする数多くの小国家へと再び分割され、12世紀頃にはキエフ公国の衰退にともなってウラジーミル大公国を中心とする北東ルーシ諸公国、北西ルーシで貴族共和制を実現したノヴゴロド公国、ルーシ西部を支配し、ルーシの都キエフを支配しつづけたガリーチ・ヴォルイニ公国などのいくつかの地域ごとの政治的なまとまりへと分裂していった。
[編集] タタールのくびき
13世紀、ルーシは東西の勢力による厳しい挑戦を受けることとなった。まず世紀初頭に未だキリスト教以前の異教の信仰にとどまっていたバルト海沿岸地域に、ドイツ騎士団を始めとするカトリック教徒のドイツ人が現われ、東方正教徒であるルーシの人々との衝突が起こっていた。ドイツ人の侵攻は1240年と1242年の二度にわたりノヴゴロド公のアレクサンドル・ネフスキーによって阻まれ、その東進はエストニアで留まってルーシへのカトリックの侵攻は頓挫する。
しかし、ルーシにとってドイツ人よりはるかに大きな影響を及ぼしたのは東からあらわれたモンゴルであった。モンゴルの先遣隊は既に1223年、ホラズム遠征の一貫としてルーシにまであらわれ、南ルーシ諸公と南ロシア草原の遊牧民キプチャクからなる連合軍を破っていた。このときは占領を目的とした遠征ではなくモンゴル軍はすぐに東に帰ったが、1236年に至ってチンギス・ハーンの孫バトゥ率いる大規模な西方遠征軍が派遣される。まずヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルガールを征服したバトゥの征西軍は続いてルーシへと侵攻し、1237年から1238年にかけてリャザン、ウラジーミル、トヴェーリを次々と占領して北東ルーシを征服、さらに1239年から1240年にかけて南ルーシに転進し、キエフ・ルーシの中心都市キエフを攻略し、ガリーチ公国を制圧した。モンゴル軍の征服は北西に遠く離れたノヴゴロドを除くほとんど全ルーシに及ぶ。バトゥはポーランド、ハンガリーを荒らしたところで大ハーン、オゴデイの死去の報を得てカスピ海北岸まで引き返し、カザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を立て、ノヴゴロドを含む全ルーシはモンゴルの支配下に組み込まれた。
キプチャク・ハン国は、ルーシに対しては間接統治をもって望み、決まった税金をサライに納めることや戦時に従軍することを義務付けたのみであった。しかし、諸公の任免の最高決定権はハンの手に握られていたから、主に領土の相続を巡って相互に敵対する諸公たちは頻繁に税金を携えてサライに赴いたり、敵対する諸公との争いで不利な裁定をされたりしないように宮廷や実力者への付け届けを余儀なくされた。納税や従軍の義務を怠れば懲罰として大軍の侵攻を受け、たちまち権力を喪失する運命であった。キプチャク・ハン国のルーシ支配は、このような状況を指して「タタールのくびき」と言われる。
このようにハンによって厳重に首枷をはめられたルーシ諸公の中から、モンゴルとの関係をうまく立ち回って権力を得たのが、モンゴルによってウラジーミル大公に任命され北東ルーシの支配者となった元ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーや、北東ルーシの諸公国に分封されたその子孫である。アレクサンドル・ネフスキーの孫でキエフ・ルーシの時代には名前も知られていなかった北東ルーシの小都市モスクワを与えられたイヴァン1世は、キプチャク・ハン国のウズベク・ハンの力を借りてウラジーミル大公位を巡って対立するトヴェーリ公を追放させ、14世紀前半にウラジーミル大公位を獲得することに成功する。歴代のモスクワ公はウラジーミル大公をほとんど独占するようになり、モスクワ大公の称号で呼ばれるようになった。1326年、モスクワ大公は、全ルーシの最高位聖職者で当時はウラジーミルにいたキエフ府主教をモスクワに迎え入れ、モスクワをキエフにかわるルーシの宗教的・政治的な中心地に定める。
[編集] モスクワからロシアへ
ルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負ったためにカリター(財布)のあだ名をつけられたイヴァン1世以来、モンゴル支配下で次第に実力をつけたモスクワ大公国は、14世紀後半にはキプチャク・ハン国の王統中断に始る混乱によってますます勢力を強め、ドミトリー公時代の1380年にはクリコヴォの戦いでキプチャク・ハン国西部の実力者ママイを破った。しかし、その直後にはママイを殺害してキプチャク・ハン国の再統合を果たしたトクタミシュの攻撃を受けて服属を余儀なくされるなど、タタールのくびきを脱するには至らなかった。
14世紀から15世紀のモスクワ大公国は、トヴェーリをはじめとするルーシ内の諸公国や、西で台頭したリトアニア大公国(のちのポーランド・リトアニア)と戦いながらルーシに勢力を拡大していった。一方、キプチャク・ハン国の側では、トクタミシュがティムールに敗れて没落した後は分裂の度を深めていた。ドミトリー大公の曾孫、イヴァン3世はこの力と情勢を背景として、1480年にハンからの独立を宣言し、貢納を停止した。また、北西ルーシの強国ノヴゴロドを併合し、ルーシ北部の統一をほとんど成し遂げた。また、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚、モスクワ大公が1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地位を自認する端緒をつくった。ロシア語で皇帝を意味するツァーリの称号もイヴァン3世のとき初めて使われたといわれる。
イヴァン3世の孫、イヴァン4世は1547年にツァーリの称号を正式に用い、ロシアの正教会の間ではモスクワはローマ、コンスタンティノポリスに続く第三のローマであり、ツァーリはローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれてきた。モスクワ大公国の支配領域が、「ルーシの国」を意味する「ロシア」との名称で呼ばれるようになり始めたのも、イヴァン4世の頃の16世紀であったと言われる。
また、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハン・ハン国を滅ぼし、始めてキプチャク・ハン国の一部を併合、シベリアに向かって東方への拡大を開始した。イヴァン4世は内政的には大貴族を抑圧してツァーリの直轄地を広げ、ロシアで最初の議会をつくるなど、中央集権化を目指した改革を進めた。かつてルーシ諸公国のひとつに過ぎなかったモスクワ大公国は、多民族を内包する大国家ロシアへと変貌を遂げつつあった。しかし1558年に始まったリヴォニア戦争で25年に渡りバルト地方の覇権を争いながら、ポーランド、新興のスウェーデンに敗れ、ヨーロッパから追い出された。さらにその後イヴァン4世は、流血、粛清を繰り返した挙げ句、国家は荒廃し、イヴァン4世死後の混乱・衰微を招来させてしまう原因を残してしまうのである。
[編集] 大動乱とロマノフ朝の成立
1598年リューリク朝は断絶した。宰相であったゴトゥノフ家のボリスがツァーリに選ばれた。しかし帝国は、三年に渡る大飢饉などで弱体化し、国民の支持を失った。1605年帝国内に不穏な噂が流れた。1593年に死んだリューリク家の皇太子ドミトリイの生存の噂がロシア国民の間に広がったのである。これはツァーリの求心力低下を狙った国際的陰謀だったとされる。背景には、ロシア支配を狙うポーランド、カトリック勢力の陰謀があった。この様な時にボリスは死に、噂であったドミトリイがポーランドで挙兵、偽ツァーリを自称しモスクワに迫った。ゴトゥノフ家は求心力を失い失脚。代わりに偽ツァーリ・ドミトリイドミトリイ1世として戴冠された。偽ツァーリ・ドミトリイは、1612年までに3世まで出すことになる。
1606年ドミトリイ1世はモスクワで暗殺された。後任にはシューイスキイ家のヴァシーリー4世が戴冠するが、これに反対するロシア人地方貴族が反乱を起こす。ヴァシーリー4世は1年がかりで反乱を鎮圧するが、これはロシアの大動乱の始まりに過ぎなかった。1608年偽ツァーリ・ドミトリイ2世がツァーリを自称し、モスクワに迫った。偽ツァーリは貴族の支持を集め、対立皇帝としての地位を獲得する。窮したヴァシーリー4世は、スウェーデンに救援を要請。スウェーデンは王太子グスタフ・アドルフを派遣、ドミトリイを撤退させた。これを口実にポーランド軍は国王の親征を開始、対決したロシアは大敗する。この様な時にモスクワでは大貴族のクーデターが起こされ、ヴァシーリー4世は廃位された。勢いを買い、ポーランド軍はモスクワを占領した。その後、帝位を巡りポーランドと対立し、ロシアの皇帝位は2年に渡り空位となる。その間に偽ドミトリイ2世は暗殺され、スウェーデンはノヴゴロドを占領し、対立ツァーリとして、ヴァーサ家の王子がドミトリイ3世を自称する。スウェーデン王となったグスタフ・アドルフは帝位を狙っていたが、ロシア側はカレリアなどの領土を割譲することで、ツァーリ戴冠の野心を放棄させた。
1611年ロシア人は、国家を上げて国民軍を結成。国民軍は瞬く間に10万を超える大軍となった。1612年9月、激戦の末、ポーランドを撃退、モスクワは解放された。翌年1613年2月、ロシアの大貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフをツァーリに推戴、ここに1917年まで続くロマノフ朝が成立した。
1613年スウェーデン、1618年にポーランドと和睦し、ここに大動乱は終結した。しかしポーランド、スウェーデンに領土を削られ、国力は衰微した。
ロシア帝国は、最初はツァーリの権力が弱く、貴族の専横を許したが、17世紀半ばから北方戦争や、ポーランド王国との戦いを通して徐々に勢力を持ち直していった。また、ロシア正教会の宗教改革の保護者となるなど、聖俗で権威を強めていった。なお、17世紀を通して、内陸国であったロシアは、権力争いを制しツァーリとなったピョートル1世の誕生によって激変する事となる。
[編集] ピョートル1世以降のロシア帝国
ロシアの動乱時代はコサックの助力を得て、終息し、1617年にミハイル・ロマノフによってロマノフ朝が開基した。17世紀の終わりに、ピョートル大帝が即位すると、彼の強い指導力のもとロシアは旧弊を打破し、近代国家としての装いを急速に調えはじめる。まず、オスマン帝国と争い、アゾフ海に進出、さらにスウェーデン・バルト帝国と大北方戦争を戦い、バルト海沿岸を獲得、そこを「西欧への窓」と位置付け、首都サンクト・ペテルブルクを建設し、そこを帝都とした。ピョートル大帝以後は、貴族同士の争いが熾烈となり、国政は停滞したが、エカテリーナ2世の登場で、啓蒙主義に基づいた近代化がはかられた。だが一方、農奴の反乱「プガチョフの乱」は徹底的に鎮圧した。またエカテリーナ2世は領土拡大に熱心で、いわゆる「ポーランド分割」をオーストリア帝国、プロイセン王国とともに行い、ポーランド東部を獲得した。またオスマン帝国と戦争(露土戦争)を繰り広げただけではなく、サファヴィー朝との境のコーカサス地方にも侵略、これを併呑した。現在まで続くチェチェン紛争の原因となる。さらにアメリカ独立戦争にも干渉し、加えてアラスカ、千島にも進出し、アダム・ラクスマンと大黒屋光太夫とともに日本の江戸幕府に使わし交易を求めた。日本との北方領土を巡る外交戦争の始まりでもあった。
19世紀に移ると、アレクサンドル1世はフランス革命に際して対仏大同盟に参加。1812年のナポレオン1世のロシア遠征に際しては、これを撃退し、1814年のウィーン会議後には神聖同盟を提唱し、自由主義運動の封じ込めを各国と連携して行った。
次のニコライ1世のころにはデカブリストの乱が起きた。国内の不満をそらすために、対外戦争に乗り出し、ギリシア独立戦争、エジプト・トルコ戦争に干渉し、「汎スラブ主義」の大義のもと「南下政策」を推し進めた。しかし、聖地管理権をめぐってオスマン帝国との間で起こしたクリミア戦争では敗北し、「南下政策」は頓挫する(東方問題)。
クリミア戦争の敗北でロシアの後進性を痛感したアレクサンドル2世は1861年に「農奴解放令」を発布し、近代化の筋道をつけた。解放された農奴たちは農村で小作農となり、あるいは都市に流入して労働者となった。ロシアも産業革命が進むきっかけとなる。その一方、清朝との間ではアイグン条約、北京条約を締結、極東での南下政策を推進した。さらに、ロシアの知識人の間には社会主義社会を志向するナロードニキ運動が始まった。しかし、この運動は広い支持を農民から得られなかったことから、ニヒリズムに運動の内容が変質し、ついには1881年、テロでアレクサンドル2世が暗殺されることになった。
アレクサンドル3世、ニコライ2世の治世、ではウィッテ財務大臣によるフランス外資の導入による、重工業化が行われた。さらにシベリア鉄道の敷設も行われた。外交面では極東で「南下政策」を展開し、清朝の満洲に進出し、遼東半島を足がかりに朝鮮への進出を企図。日本と衝突。1904年に日露戦争が勃発。翌1905年にはアメリカ合衆国の仲介でポーツマス条約で講和。しかし、事実上、極東での「南下政策」は失敗した。また、日露戦争さなかの1905年の1月22日の「血の日曜日事件」をきっかけに労働者のゼネストが頻発し(ロシア第1革命)、ロシア帝国の体制の根幹をなしてきた「皇帝専制主義(ツァーリズム)」も著しく動揺した。
[編集] 第1次世界大戦とロシア革命
[編集] 「血の日曜日事件」
[編集] 第1次世界大戦
[編集] 2月革命
1917年の3月8日の「国際婦人デー」において、ヴィボルク地区の婦人たちは「パンよこせ」デモを展開したことから、10にはロシア全土でストライキが発生。「戦争反対」「専制君主制打倒」の声が高まりゼネストが起きた。当局は11日には軍と警察による鎮圧を試み、流血をともないながらもひとまずは鎮圧にこぎつけた。
しかし、12日にはヴォイニ連隊からデモ隊鎮圧に反対する兵士の反乱が発生し、他の連隊ににもその動きが波及し、6万人に及ぶ、離脱者が続出した。彼らは労働者と合流し、3000人に政治犯の釈放を行った。
首都ペトログラードは革命の渦中となり、メンシェビキのチヘイゼが議長を務める「第1回ソヴィエト大会(執行委員は15人。うちボリシェビキは2人)」が開会された。また国会でもこの混乱を受けて臨時会が開かれ、ゲオルギー・リヴォフ首相就任のが画策された。
13日には労働者と一層多くの兵士が革命側に合流したため、事実上ロシア政府軍は統制が取れなくなった。
一方、第1次世界大戦の陣頭指揮のためにペトログラード南西のプスコフにニコライ2世は首都での革命的騒擾に対して、軍を派遣し、事態の沈静を図ったが、それが悉く失敗に終わり、回復が不可能であるとわかると、皇帝位を退くことを決定した。後継のアレクセイ皇太子は病弱で、弟のミハイル大公も即位を拒否。ここに304年続いたロマノフ朝は終焉した。
「皇帝退位」の報はすぐに、首都に伝えられ、新体制の建設がはじまった。臨時政府がその日の内に成立。リヴォフが首相に就任し、ソヴィエト副議長で社会革命党のケレンスキーが司法相に就任した。
[編集] 10月革命
2月革命以後発足した体制は、臨時政府と労働者と兵士からなる「ソヴィエト」が並び立つ2重政府体制であった。この年の4月にスウェーデンからペトログラードに戻ったレーニンは「ソヴィエト権力の樹立」を目標とする「四月テーゼ」を発表した。これがボリシェビキの方針となる。しかし、多数派にメンシェビキと社会革命党は臨時政府との妥協と連立を目標とし、ボリシェビキを弾圧するようになった。
この年7月のデモでレオン・トロツキーは逮捕され、レーニンはフィンランドに亡命を余儀なくされた。
ところが、9月にはケレンスキーが最高司令官に任命したコロニーロフ将軍が反乱を起こしたことで、メンシェビキの求心力が低下し、ボリシェビキが勢力を盛り返してきた。
トロツキーは釈放後には早速、ソヴィエト議長となり、10月25日には「軍事革命委員会」を設立した。またレーニンも秘密裏に帰国し、23日には武装蜂起を高々と主張したのであった。
このようなボリシェビキの動きに臨時政府は手をこまねいていたわけではなく。弾圧に乗り出した。11月6日にはボリシェビキの印刷所を閉鎖した。
これにボリシェビキの「ソヴィエト軍事革命委員会」は憤激し、武装闘争によって政権獲得を決定した。 労働者を主体とする「赤衛隊」が首都の電話局や省庁などを占拠し、さらにクロンシュタットの水兵たちが、戦艦「アウラ号」から臨時政府のある「冬宮」たいし砲撃で威嚇した
この日のうちに「第2回ソヴィエト大会」が開かれ、ソヴィエト政権の樹立が宣言された。
翌日には冬宮は陥落し、ケレンスキーら閣僚の身柄が拘束された。
前日から続く「ソヴィエト大会」にもこの知らせはもたらされるが、レーニンは「平和に対する布告」「土地に対する布告」を上程し採択。盛会裏に大会は終了した。
[編集] 世界初の社会主義国家「ソ連」
10月革命から翌年の1918年1月23日から、第3回労働者・兵士ソヴィエト大会が同月31日まで開催された。この大会では勤労搾取人民の権利が宣言されるとともに、新国家が「社会主義の建設を目的とする労働者、兵士、農民のソヴィエト共和国であることが確認された。また土地社会化基本法案が採択。さらにヨシフ・スターリンによってロシア共和国は「諸民族のソヴィエト共和国連邦である」ことが報告された。開催から3日後の26日には農民ソヴィエト大会も合流し、参加者は1587名にのぼり、うち、ボリシェビキと社会革命党左派が大半を占めていた。この大会のよって世界初の社会主義国家ソヴィエト連邦の成立が宣言されたのである。
[編集] ソヴィエト連邦
詳細はソビエト連邦を参照
[編集] ソ連内戦
詳細はソ連内戦を参照
[編集] 第2次世界大戦
ソ連は第2次世界大戦においては枢軸国であるドイツと日本に対して同盟を当初結んでいたが、ドイツが1941年に侵略を始めると、一転連合国側について戦うことになった。
ドイツにアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が台頭すると当初は独ソ不可侵条約を結んでいたがおり、1939年のドイツのポーランド侵攻の際には密約に基づきポーランドの東半分のガリツィアなどを占領した。またスターリンはモロトフ外相をして、バルト3国に圧力を欠け、ついにこれを併合した。さらにレニングラード防衛を理由に隣国のフィンランドを侵略し、冬戦争を引き起こした。しかし1941年にはアドルフ・ヒトラーがバルバロッサ作戦を発動し、ソ連に侵略。いわゆる独ソ戦(「大祖国戦争」)が開始されると連合国側として第二次世界大戦に参戦することになった。一時は首都モスクワにドイツ軍が進撃する場面もあったが、レニングラード包囲戦やスターリングラード攻防戦に勝利し、数百万人の死傷者を出す長く筆舌に尽くし難い困難の末に戦勝国となった。
日ソ中立条約を結んでいた日本に対しては、ヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を破棄し、ソ連対日宣戦布告をし千島列島や南樺太、満州に侵攻した。この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続けた。また、その後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。
[編集] 冷戦
第2次世界大戦後、アメリカ合衆国との対立が激化し、ソ連は東ヨーロッパに社会主義国家を建設し、これを衛星国家とした。1950年には中華人民共和国と中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。さらに1955年にはワルシャワ条約機構を東欧諸国と結成した。1956年にはニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行ったため東欧諸国に動揺が走ったが、ハンガリー動乱、プラハの春などの自由主義運動を武力で鎮圧した。1962年にはキューバ危機が起き、米ソ戦争の危機が高まったが、これを回避し、翌年にはケネディ大統領の間で、部分的核実験停止条約が結ばれた。フルシチョフ失脚後のコスイギン、ブレジネフの時代には中ソ紛争が勃発、さらにアフガニスタン侵攻などの事件が起きた。米ソ会関係は緊張状態にあり、1980年のモスクワオリンピックには西側諸国がボイコットとし、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国がボイコットをした。またロナルド・レーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と批判し、ソ連と軍拡競争を展開した。1985年に書記長となったミハイル・ゴルバチョフはペレストロイカ政策を進めアフガニスタンからの撤退を決定。ジョージ・ブッシュ大統領との会談で冷戦の終結を宣言した。
[編集] ゴルバチョフの登場とペレストロイカ
[編集] 冷戦の終焉とソ連の崩壊
[編集] 独立国家共同体の成立
[編集] ロシア連邦共和国の成立
[編集] エリツィン政権
[編集] プーチン政権
15の共和国に分離した後、チェチェン独立派武装勢力によるテロが起こるなど治安が悪化し、元KGBのウラジーミル・プーチンが大統領に就任する。ロシアは現在も世界最大の「植民地」(ロシアのくびき)を抱え、チェチェン紛争や、他国との領土問題などが絶えない。また国家経済も厳しく、貧富の差も拡大している。この様な中でロシアは、テロの脅威(対テロ戦争)を口実に軍事国家及び独裁政治を強靱に進め、国外に対しては、強烈な大国主義を掲げ、国内に対しては、民族の牢獄を形成している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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