平氏政権
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平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代-1185年)に登場した平清盛を中心とする伊勢平氏による政権。平清盛の館が京都六波羅にあったことから、六波羅政権ともいう。
以前、学界では平氏政権を貴族政権的な性格が強いとする見解が主流であったが、1970年代・1980年代頃からは、平氏政権が地頭や国守護人を設置した事実に着目し、最初期の武家政権とする見解が非常に有力となっている。
平氏政権の成立時期については、仁安2年(1167年)5月宣旨を画期とする見解と、治承3年(1179年)11月クーデターの時点とする見解とが出されている。前者の宣旨は平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であり、源頼朝による諸国の治安維持権を承認した建久2年(1191年)3月新制につながるものと評価されており、武家政権の性格を持つ平氏政権がこの宣旨によって成立したとする見方である。一方、後者は、治承3年11月クーデターの際に平氏勢力が従来の国家機構の支配権を掌握したことを重視している。一般的に平氏政権は12世紀中期から段階的に成立したのであり、仁安2年5月宣旨を大きな画期としつつ、治承3年11月クーデターにより平氏政権の成立が完了したものと考えられている。
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[編集] 前史
平氏政権に至る基盤形成は、白河院政期に遡る。12世紀はじめ頃、軍事貴族の中で最も有力だったのは河内源氏の源義家であり、武士の棟梁と呼ぶべき地位を築いていたが、その子の源義親は対馬守のときに公務を果たさず自勢力の扶植に努め、官吏を殺害するなどしたため捕らえられ、隠岐に配流された。
父、義家が1106年(嘉承1)に没すると、義親は隠岐から出雲へ脱出し、ふたたび官吏を殺害したり官物を押領するなどの動きを見せるようになった。朝廷では義親の動きを叛乱と認識し、その追討を源義忠(義家の子、平正盛の女婿)に命じたが、義忠は兄との対決に躊躇したため、軍事貴族として白河院政に接近していた伊勢平氏の平正盛が娘婿の義忠の代理として義親追討に向かった。1108年に正盛は義親の追討に成功し(正盛が実際に義親を殺害したかについては異論がある)、より一層、白河上皇に抜擢されていった。
正盛は、桓武平氏貞盛流の伊勢平氏に出自し、その父の正衡までは軍事貴族の中でもそれほど有力な一族ではなかったが、正盛の時、伊賀の荘園を六条院(実質的に白河上皇が支配)へ寄進するなどして、白河上皇へ接近し、北面の武士に任じられて白河院政の軍事面の一部を担うようになっていた。こうした状況で義親追討に成功したことは、河内源氏に代わる武士の棟梁との認識を生み出し、白河院政における正盛の地位をさらに向上させた。また、武士の棟梁とされていた源義家が死没し、その後継者で栄名のあった娘婿の源義忠が暗殺されるなど河内源氏の混乱や義忠の後継となった源為義の資質など、多くの要因が正盛に有利に働き、平氏台頭を助けたともいえる。また、義忠の死後、正盛のもとで、義忠の遺児たちが養育されたことから河内源氏与党の武士たちが抵抗なく正盛の台頭を認めたことなども平氏の権力基盤を固めるのに有利に働いたと考えられている。
白河没後、その跡を継いで治天の君となった鳥羽上皇に対しても、正盛は引き続いて伺候した。鳥羽上皇は、白河上皇以上に専制的な施策を進め、院直属の荘園を大々的に確保していくとともに、京から淀川を経て瀬戸内海・九州へ通じる海上交通へ支配を及ぼすことに力を注いでいた。この海上交通ルートは、日宋貿易のルートへつながっており、多大な利益を伴うルートでもあった。正盛は、こうした鳥羽上皇の方針に従って、瀬戸内海の支配へと乗り出していった。
正盛の子の平忠盛も父の路線を継承して、鳥羽上皇の下で西国の海上支配に従事した。忠盛は西国の国司を歴任し、富を蓄積するだけでなく西国に勢力を扶植していった。1129年(大治5)に瀬戸内海の海賊追討に成功すると、1132年(長承1)には平氏で初めて内裏昇殿が許された。さらに1133年(長承2)に肥前国神埼荘(鳥羽院領)に宋の貿易船が来航した時、忠盛は大宰府の関与を廃して、院司として交易に当たった。1135年(保延1)にはふたたび瀬戸内海の海賊を追討した。こうして忠盛は、院との結びつきを強めるとともに、西国における勢力を確立して水軍を傘下におさめ、また日宋貿易に深く関わるなどして、自家の勢力を育て上げ、次代の平氏政権への基盤を形成した。
[編集] 形成期
1156年、治天の君及び摂関の座をめぐる対立が激化し、保元の乱が発生した。この乱で平清盛は後白河天皇に味方し、その武功により播磨守となった。その後、後白河上皇と二条天皇の側近同士(藤原信西と藤原信頼)の対立が激しくなり、3年後の1159年に平治の乱が起こった。信頼は源義朝を配下につけて、信西を自殺へ追い込むことに成功したが、信西側についていた清盛勢力の反撃に遭い、あえなく敗北し処刑された。
平治の乱後の1160年(永暦1)、清盛は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となった。保元・平治両乱は政治抗争が武力で解決されることを示した歴史的な事件だったが、この事実は貴族社会に大きな衝撃を与え、そのことが当時の武士で最大の実力者となっていた清盛を政治に参与させる契機となった。乱後、清盛はギクシャクしていた後白河上皇と二条天皇の関係融和に尽力したが、こうした行動について、上皇と天皇を両天秤にかけるように見る貴族もいた。事実、清盛は1160年に妻平時子の妹である平滋子(建春門院)を後白河上皇の後宮へ入れる(1161年(応保1)、滋子は後白河の皇子を出産)とともに、二条天皇の側近であった関白藤原基実に娘の盛子を嫁入れし、後白河・二条双方へ接近する姿勢をとっていた。
1165年(永万1)に二条天皇が死去すると、前後して前関白藤原忠通・崇徳上皇(ともに1164年死去)、太政大臣藤原伊通(1165年死去)、摂政藤原基実(1166年死去)ら、政治の中心人物たちが相次いでこの世を去った。こうした状況の中で、清盛は異例の昇進を続けていき、1165年には権大納言へ任じられると、翌1166年には内大臣へ上り、さらに翌1167年には太政大臣への任官を果たした。人臣で太政大臣に就いたのは、それまで藤原北家のみに限られており、清盛の就任は極めて異例の事態であった。当時の貴族社会の中では清盛を白河上皇の落胤とする説が信じられており、このことが清盛の異例の昇進に強く影響したと考えられている。
[編集] 全盛期
1168年には滋子が出産した後白河の皇子が高倉天皇として即位した。高倉の即位は、清盛だけでなく、安定した王統の確立を目指していた後白河上皇も望んでいたものであり、後白河と清盛は利害をともにする関係にあったといえる。この時期まで後白河と清盛の関係は良好であった。清盛の家系は、祖父正盛から代々院に仕えることで勢力を増してきたのであり、清盛も後白河上皇の院司として精力的に貢献を重ねてきた。1162年、後白河が日宋貿易の発展を目論んで摂津の大輪田泊を修築した際、清盛は隣接地の福原に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、後白河と清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいたことを示している。
清盛は、若い頃から西国の国司を歴任し、父忠盛から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守・播磨守を務めた時は瀬戸内海の海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった。こうして涵養した実力を背景として、清盛は後白河と深く結びついていた。
また、1166年に摂政藤原基実が死去した際、清盛は摂関家が蓄積してきた荘園群を基実の正室盛子=清盛の娘に伝領させた。これにより清盛は厖大な摂関家領を自己の管理下へ置くことに成功した。摂関家を嗣いだ藤原基房は伊勢平氏による押領だと非難したが、この事件は摂関家の威信の低下を如実に表しており、清盛一族は大きな経済基盤を獲得した。
以上に見るように、政治世界における武力が占める比重の増加、後白河と清盛の強い連携、後白河と滋子の関係、高倉天皇の即位、清盛の太政大臣補任、日宋貿易や集積した所領(荘園)に基づく巨大な経済力、西国武士や瀬戸内海の水軍を中心とする軍事力などを背景として、1160年代後期に平氏政権が確立した。
この時期、後白河上皇は院政の強化を図っており、その一環として清盛の子の平重盛に軍事警察権を委任し、東海道・東山道・山陽道・南海道の追討を担当させた。また、内裏の警備のために諸国から武士を交替で上京させる内裏大番役の催促についても、平清盛が担うようになっていた。こうした動きは、院と深く連携して院政の軍事警察部門を担当することを平氏政権の基盤に置くものであり、その中心には重盛がいたが、その一方で清盛は、西国に築いた強固な経済・軍事・交通基盤によって院政とは独自の路線を志向するようになっていたと考えられている。
1168年(仁安3)に清盛は出家し、自らを政治的に自由な立場に置くと、福原の山荘へ移り、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組み始めた。後白河も清盛の姿勢に理解を示し、1169年から1177年まで毎年のように福原の山荘へ赴いた。1170年に後白河は福原山荘にて宋人と対面しているが、これは宇多天皇の遺戒でタブーとされた行為であり、こうした清盛主導の前例にない政治姿勢に対して、有力貴族層を中心に不満が生じ始めていた。
1171年(承安1)、清盛は娘の平徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮として嫁がせた。清盛一族と同様に、建春門院滋子の父である高棟流平氏の平時忠一族も栄達し、両平氏から全盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出するに至った。『平家物語』によれば、時忠は「平家一門でない者は人ではない(この一門にあらざれば人非人たるべし)」と放言したと伝えられている。
[編集] 動揺期
ながらく続いた後白河と清盛の良好な関係は、1176年(安元2)の建春門院滋子の死によって大きな変化が生じ始めた。後白河の寵愛する滋子は、後白河と清盛の関係をつなぐ重要な存在であったが、その死は両者間に蓄積していた対立点を顕在化させることとなった。
元々、有力貴族の中には、平氏一族が自分たちを押しのけて急速に台頭してきたことへの嫌悪が潜在しており、また平氏政権が推し進めた諸政策には旧来と大きく異なる斬新な政策が多く、貴族内部に戸惑いを生んでいた。そうした中で、僧・神人階層の要求を背景とした延暦寺が、院近臣との対立を深めており、平氏は延暦寺側に協力して院近臣の藤原成親の排除を試みた。成親は後白河が特に寵愛していた側近であり、こうして次第に後白河と平清盛の関係が悪化していった。
1177年(安元3)4月には、大内裏・大極殿・官庁の全てが全焼する大火が発生した(安元の大火)。この大火は後白河に非常に大きな衝撃を与えた。また大火と並行して、ふたたび延暦寺勢力(白山社)と院近臣(西光)の間に紛争が生じ、後白河と清盛の対立は決定的となっていた。大火の2ヶ月後、京都郊外の鹿ヶ谷に成親、西光、俊寛ら院近臣が集まり宴席を設けていたが、これが、宴席に参加していた多田源氏の源行綱(多田蔵人行綱)の密告により反平氏の陰謀だとされ、清盛は関係者を速やかに斬罪や流罪などに処断した(鹿ヶ谷の陰謀)。これにより後白河は多くの近臣を失い、政治発言権を著しく低下させてしまった。
清盛は、後白河との関係を放棄する一方で高倉天皇との関係を強化し、高倉天皇もまた後白河院政からの独立を志向し、翌1178年(治承2)、両者は連携して新制17条を発布した。同年には建礼門院徳子(清盛の娘)が高倉天皇の皇子を出産し、皇子は生後1月で皇太子に立てられた。
1179年(治承3)、重盛と盛子が相次いで死去すると、後白河は関白基房と共謀し、清盛に無断で重盛の知行国(越前)と盛子の荘園を没収した。特に盛子の所領は高倉天皇が相伝することが決まっていたため、高倉・清盛側と後白河側の対立は悪化の一途をたどった。同年11月、京を大地震が襲い京全体が動揺しているさなか、清盛は福原から上京して、法住寺にいた後白河の身柄を確保するとすぐに鳥羽離宮へ幽閉し、後白河院政を停止するとともに、関白以下院近臣39名を解任するクーデターを遂行した。これは事実上、軍事力による朝廷の制圧であり、以後、平清盛政権はますます軍事的な色彩を強めていく。このクーデターをもって、武家政権としての平氏政権が初めて成立したとする見解もある。従前の高官に代わって平氏一族や親平氏的貴族が登用され、また知行国の大幅な入れ替えもあって中央・地方の両面において平氏一門を中心とする軍事的な支配体制が強化していった。
同年の平氏一門の知行国25か国、国守29か国にのぼり、伊勢平氏の勢力基盤の西国のみならず、東国にも平氏政権の勢力が及ぶこととなった。平氏の荘園は500余箇所だったとされているが、平氏は本家などといった最上位の領主として荘園を支配したのではなく、領家や預所といった職で荘園管理に当たっていた。平氏政権は、各地の武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣し、知行国においては国守護人、荘園においては地頭と呼ばれる職に任命して現地支配に当たらせた。ただし、こうした現地支配の形態は、関係史料が少ないため明らかでない部分もあるが、平氏支配地に一律で適用されたのではなく、武士による支配を模索する中で現れたに過ぎないとされている。これは後の鎌倉幕府による本格的な武家政権支配と比較すると、御家人制度のように確立されたものでもなく未熟なものだったといえるが、武士を通じた支配ネットワークを構築したことは従前の貴族政権には見られない画期的なものとされ、ゆえに学界では発現期の武家政権であるとする評価が主流となっている。なお、平清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉期におけるの守護・地頭の祖形だと考えられている。
翌1180年(治承4)2月、3歳の安徳天皇が即位し、高倉上皇は院政を開始した。この時こそ清盛の平氏政権が最も強固な体制を築いた絶頂期であったが、しかし、平氏政権は後白河との良好な関係の上に形成されてきたのであり、前年のクーデターによって後白河との関係は解消されてしまっており、平氏政権の絶頂は極めて脆弱な基盤に載っていたといえる。
[編集] 衰退・消滅期
- (以後の経緯については、治承・寿永の乱も参照のこと。)
清盛は高倉院政の開始に当たって、高倉とともに安芸国厳島への社参を行った。しかしこれは、代替わりに石清水八幡宮・賀茂神社へ社参するという慣例に反するものであり、園城寺・興福寺などは一斉に清盛へ反抗の姿勢を見せ始めた。反清盛の気運が高まる中、1180年4月には以仁王(後白河の第2皇子)が平家追討の令旨を発し、摂津源氏の源頼政と結んで挙兵した。しかし清盛は迅速に対応し、平知盛率いる平家軍は以仁王と頼政をすぐに敗死へ追い込んだ。しかし叛乱に興福寺や園城寺などの有力寺院が与したことから、清盛は政権の体制確保のため、福原への遷都を決行し、後白河の幽閉を解いて、ともに福原へ遷った。
ところがこの遷都は貴族に極めて不評であり、朝廷内部に平清盛への反感が募っていった。さらに、以仁王の令旨を受けて、東国の源頼朝、源義仲、源信義(甲斐源氏)らが相次いで反平氏の兵を挙げ、さらに多田源氏、美濃源氏、近江源氏、河内の石川源氏、九州の菊池氏・紀伊熊野の湛増・土佐の源希義らも反平家の行動を始めていた。こうした反平家の動きの背景には、平家が現地勢力を軽視して自らの家人や係累を優先して平家知行国や平家所領の支配に当たらせていたことへの反発があった。特に独自性の強かった南関東では、頼朝の下に武士たちが瞬く間に集結して一大勢力を形成しており、清盛は孫の平維盛に追討軍を率いさせたが、富士川の戦いであえなく敗走してしまった。
遷都以降、貴族の不満も高まり、高倉上皇の健康が悪化していく中で、親清盛派の延暦寺(彼らは本来は園城寺や興福寺と敵対関係にあったが、福原遷都には園城寺や興福寺と同様に不満を抱いていた)などからの要望を契機として、遷都から半年後の11月、清盛は福原からふたたび京へ戻った。翌12月、園城寺・興福寺・東大寺などが反平家の挙兵を行ったため、清盛は断固とした態度で臨み、平重衡を率いる大軍を南都へ派遣し、これらの寺社を焼き払うとともに荘園を没収した。さらに知盛率いる軍も近江・美濃の叛乱勢力を鎮圧し、畿内周辺の叛乱はひとまず沈静化した。
1181年(治承5)1月、高倉上皇が死去し、後白河院政が再開されたが、畿内に臨時の軍政を布くべしという高倉上皇の遺志に基づいて、清盛は子の平宗盛を畿内周辺を直接管領する惣官に任じた。この惣官職は、畿内近国を軍事的に直轄支配することを目的に設置されたもので、平氏政権の武家政権としての性格を如実に表しており、平氏政権が本格的な武家政権へ成長していく可能性をここに見出しうると、学界では考えられている。清盛はその後も京の富裕層から兵粮を徴収すると同時に、伊勢周辺の水軍に動員をかけて、反平家勢力の追討に意欲を燃やしていたが、同年閏2月に熱病で急死し、平氏政権は大きな打撃を受けた。
清盛の死後、跡を継いだ宗盛は、後白河との融和路線を採り、各地の叛乱勢力の鎮圧にもある程度成功していった。しかし、1183年(寿永2)5月に源義仲の軍が北陸から一気に京へ進軍すると、義仲軍に主力を壊滅させられていた平家は、ついに安徳天皇を伴って京を脱出し、福原をへて大宰府に入り都とした。この時点で平氏政権は、貴族社会に形成してきた基盤を捨て、西国の地方政権へとその性格を大きく変えた。後白河は平家と行動を共にせず、京に残って孫の後鳥羽天皇を即位させたが、これにより天皇が2人存在するという未曾有の事態となった。
平家は、西国の勢力を再編成して軍の再建を進め、瀬戸内沿岸で義仲軍を徐々に押しやり、1184年(寿永3)1月に義仲が頼朝政権軍(源範頼・源義経軍)に滅ぼされる頃には福原を回復するまでに至っていた。平家は、後白河の仲介による京への復帰を目指していたが、後白河は頼朝側の希望する平家追討を優先せざるを得ず、平家は半ば騙し討ちを受けた形で一ノ谷の戦いに敗北し、ふたたび西下していった。
その後、平家は西国の諸勢力を組織して戦争に当たっていたが、1185年(元暦2)3月、関門海峡での最終決戦(壇ノ浦の戦い)で平家は源義経軍に敗れ、平家一門は滅亡し、平氏政権は名実ともに消滅した。
[編集] 意義と評価
平氏政権は、今日では日本史上初の武家政権と考えられている。
『平家物語』や『愚管抄』など同時代の文献は、平家滅亡後に平氏政権に抑圧されてきた貴族社会や寺社層の視点で描かれてきたものが多い。従って、後白河法皇が自己の政権維持のために平家を利用して、高い官職を与え知行国を増やさせてきたという経緯や当時の社会問題に対する貴族社会の対応能力の無さという点には触れず、清盛と平家一門がいかに専横を振るい、「驕れる者」であったかを強調している(だが、実際には少なくても治承3年以前における平家の権力は後白河との強い関係の下で行使されたものが大半であり、その段階において清盛及び平家一門が独裁的権力を有していたという具体的な事実は存在していない)。そのため、以後の歴史書もこの歴史観に引きずられる形で「平氏政権観」を形成していった。
こうした背景を受けて以前の学界では、平氏政権が貴族社会の中で形成されたことに着目して、武家政権というよりも貴族政権として認識されていた。貴族社会の官職に依存していること、院政と連携して政策推進を行っていたこと、などがその理由である。そのため、平氏政権は、武士に出自しながら旧来の支配勢力と同質化してしまったと批判されたのに対し、在地領主層=武士階級から構成される鎌倉幕府は、旧来の支配階級を打倒した画期的・革新的な存在だとして、階級闘争史観などにより高く評価されていた。こうした歴史像に基づく記述が、21世紀初頭まで一部の辞書などに残存していた。
しかし、1970年代・1980年代頃から、史料に基づく実証的な研究が進んでいくと、平氏政権も鎌倉幕府に先立って武家政権的な性格を呈していたことが判明するようになった。史料によれば、平氏政権は支配地域の勢力を武士として系列化し、知行国・荘園に国守護人・地頭などといった従来あまり見られなかった職を置いて、半軍事的な支配を進めた。関係史料が少ないため、平氏政権における国守護人・地頭の設置とそれに伴う支配の深化がどれほど進んでいたかは、必ずしも明らかとなっていないが、学界では、これら国守護人・地頭は、後の鎌倉幕府における守護・地頭の先駆的な存在だと考えるようになっている。また1181年に設置した畿内惣官職や諸道鎮撫使は、これもその職能の詳細は不明な点もあるが、数か国にわたる広い領域を軍事的に直轄支配するものと見られており、特に畿内惣官職は征夷大将軍と同様の性格を見出しうるとする見解もある。このように、平氏政権は従来の貴族政権と異なり、武力に大きな基盤を有していたことが明らかとなり、学界では日本最初の武家政権とするのが通説となっている。なお、1185年に滅亡することがなければ、平清盛の政権は鎌倉幕府とはまた違った、西国を中心とした独自の武家政権へ成長したのではないかとの可能性も指摘されている。
平氏政権は平家の平清盛という一個人に大きく依存しており、清盛の死から数年のうちに瓦解に至った。また、前述したように、後白河との良好な関係に依存するところも大きかった。院政期以降、中央貴族層と地方諸勢力との間に政治的・経済的な矛盾が次第に大きくなっていたが、こうした矛盾解決の一局面が保元・平治両乱であり、いずれも武力により解決された。その後も、政治的・経済的矛盾は増大していったが、後白河・清盛の良好な関係がそのような矛盾を顕在化させなかった。1179年に後白河と清盛の関係が破綻すると、諸矛盾を平氏政権が一手に引き受けるようになり、保元・平治両乱よりはるかに大規模な内乱を通じて諸矛盾の解消が行われたと考えられている。