クイズダービー
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クイズダービー(英語表記:QUIZ Derby)は1976年1月3日から1992年12月19日までTBSで放映されたロート製薬提供の視聴者参加クイズ番組。全862回。
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[編集] 番組の歴史
毎週土曜のよる19:30~20:00の放送(30分の放送だったが、過去に数回1時間のスペシャルが放送されていた)。「巨泉のクイズダービー!!」のかけ声の後、競馬のゲートが開く音と共にオープニングテーマが流れて番組がスタートする。この枠は元々大橋巨泉の司会で、同じロート製薬の1社提供だった「お笑い頭の体操」(1968年 - 1975年)が放送されていたものの、リニューアルされることになり、巨泉の競馬好きが昂じて、かつてカナダで見たクイズ解答者を馬に見立て賭けを行い高得点を競う競馬形式のクイズ番組を模倣した番組が企画された(詳細はルールを参照)。もっとも、カナダの「本家」は、巨泉の話によれば非常に短命で、1年も続かなかったという。ただし、カナダの番組では解答者に予め答えを教える場合もあるやらせ行為があるのに対し、この「クイズダービー」ではやらせ無しの真剣勝負であるのが相違点である(ただし一部週刊誌で回答のヤラセ疑惑を報じている)。
大橋巨泉のセミリタイア宣言に伴い、1990年4月からは元日本テレビアナウンサーの徳光和夫の司会に代わり、1992年の番組終了まで担当、大橋巨泉は「スーパーバイザー」として参加した。音楽担当はたかしまあきひこ。前後の「まんが日本昔ばなし」や「8時だョ!全員集合」、さらには「Gメン'75」などと合わせ、1970年代から1980年代の土曜夜はTBSが高視聴率で圧倒し、他局を寄せ付けなかった。その影響もあり、なるべくこれらの番組を放送しようとTBSは当時土曜の夜にナイター中継を組むというのがほとんどなかった(実際、プロ野球中継で返上されたのはたった4回だった)。ただ、この高視聴率番組もスタート当初は4%台と低迷し、当時流行していた日本テレビの裏番組などに負けながら苦戦をしていた。収録は、現在のTBS社屋の近くにあったTBSホール(TBS本館=後の赤坂メディアビル内、既に取り壊し済み)で行われていた。
1990年3月31日の巨泉司会バージョンの最終回では、当時のレギュラー解答者だった1枠北野大・2枠井森美幸・3枠はらたいら・4枠竹下景子と、5枠には篠沢秀夫がゲスト解答者として登場した。出場者はガッツ石松・萩尾みどり(赤チーム)、斉藤慶子・山崎浩子(黄チーム)、黒鉄ヒロシ・長山藍子(緑チーム)が登場している。そして同年4月からは徳光和夫が2代目の司会者となり、オープニングの掛け声も「徳さんのクイズダービー!!」と変更された。
しかし徳光の司会ぶりは、やはり巨泉と比べるとあらゆる面で物足りなかった。その後、視聴率が低迷し始め、裏番組では1991年10月にフジテレビで放送開始となった、「たけし・逸見の平成教育委員会」やテレビ朝日の人気アニメ「おぼっちゃまくん」(関西地区は「部長刑事」シリーズ)などに苦戦する一方となる。1992年7月からは週代わりレギュラー制を導入したが、これも裏目に出て視聴率をさらに下げてしまい、ついに同年の暮れでクイズダービーの打ち切りが決定となった。1992年12月19日の同番組の最終回(第862回)では、巨泉が1990年3月にセミリタイヤ宣言で降板して以来の1夜限りの司会に復帰し、2代目司会者の徳光和夫は、5枠のゲスト解答者として登場した。他にレギュラー解答者は北野・井森・はら・竹下に、出場者は黒鉄ヒロシ・五月みどり・ガッツ石松(赤チーム)、うつみ宮土理・小沢昭一・長山藍子(黄チーム)、山崎浩子・松崎しげる・植草克秀(緑チーム)が登場。最終回に徳光が告げたオープニングの掛け声は「巨泉のクイズダービー!!」だった(その時徳光の顔には、巨泉の顔に似せたメガネをかけての登場となった)。
なお、TBSで春・秋放送されていたスペシャル番組「クイズまるごと大集合」(1987年 - 1991年)では関口宏やビートたけしが司会をしていた(なお、関口やたけしも本放送時にはゲスト解答者として登場している)。大橋巨泉は同時期に同局(毎日放送制作)で世界まるごとHOWマッチ!!(1983年 - 1990年)の司会も担当していた(こちらも巨泉の趣味が反映されて、ゴルフのルールが取り入れられていた)。
また、同番組終了後も人気は根強く、これまでに2回復活特番が行われ、その後CS放送による再放送も行われている。2000年12月30日にはJNN系「21世紀プロジェクト年越し38時間生放送『SAMBA・TV』」の番組内「20世紀の人気番組大集合!」で巨泉の司会でのリバイバル放送が組まれた。解答者は1枠篠沢秀夫・3枠はらたいら・4枠竹下景子と昔からお馴染みのレギュラーメンバーに、2枠にはクイズダービーとしては初登場の久本雅美、5枠では本放送時や「クイズまるごと大集合」にゲストとしても出演していた石坂浩二を迎えた。他出場者は、当時の「ブロードキャスター」から福留功男(本放送時にゲスト解答者としても登場)・三雲孝江(過去にも本放送で出場者として登場)の赤チーム、「渡る世間は鬼ばかり」から長山藍子(本放送時は2枠レギュラー解答者)・えなりかずきの黄チーム、「さんまのSUPERからくりTV」から中村玉緒・セイン・カミュの緑チームがそれぞれ特別出場した。また出題アシスタントは小池達子が務めている。なお、単独提供ではなかったものの、ロート製薬もスポンサーとして名を連ねた。
2004年5月14日にはロンドンブーツ1号2号とロバートのスペシャル番組・「もう時効だョ全員集合史上最強!花の芸能界オフレコトークバトル」で、4年前の「20世紀の人気番組大集合!」と同様に、復元スペシャルが放送された。司会巨泉・出題アシスタント小池・解答者篠沢・はら・竹下の4年前と同じメンバーに、2枠には井森美幸が久々に登場し、5枠にはロンドンブーツ1号2号の田村淳を加えての構成となった。なお、従来のクイズダービーでは全部で8出題だったが、この時は一般2問、三択2問、歌詞1問の、合計5問のみ出題という短縮バージョンでの放映となっている。なお2000年の復活版から、倍率や得点表示がデジタル式に変更。スタジオセットも1980年代の放送(2代目)のものを採用し再現している。
そして2005年1月よりCS放送・TBSチャンネルでの再放送が始まった。そのため、今まで放送されなかった地域でも楽しめるようになった。CS最初の放送は2005年1月3日で、この日は本番組の放送開始からちょうど30年目に入る節目の日でもあった。放送開始時刻も本放送と同じ19:30から放送された(この日は4本分連続で放送)。なお、現在は毎週月曜日に放送されているが、放送曜日となっている月曜日は、本放送の公開録画が行われていた曜日でもある。また、ロート製薬の初代オープニングキャッチも併せて放送されている。但し、1988年10月~1989年1月放送分は当時、昭和天皇の病状に伴い、ロート製薬の初代オープニングキャッチの放送を自粛(このときはブルーバック画面に番組のテーマ曲を乗せての提供読みだった)していたためCS放送ではTBSチャンネル共通のオープニングの後、すぐに「巨泉のクイズダービー!!」の掛け声で始まる(放送素材でも該当する回にはオープニングキャッチは収録されていない)。
[編集] セットのアレンジ
客席から見てスタジオの中央部に解答者席(上に番組タイトルの電飾看板がかけられている)、右側に司会者席(左にアシスタント、右に司会者が座る。上には解答者のその日の解答成績〈『本日のレース結果』として〉が表示される(表示は10問目まで対応 正解のときは●印が点灯する。なお、9問目以降は特番以外は点灯しなかった)。番組の初期では左からゲストオッズマン、レギュラーオッズマンの藤村俊二、司会者の大橋巨泉が座っていて3つに席が分かれていた。また、解答成績は司会者席と6枠解答者席の間にボード形式で立てていた)、左側に出場者席があり、その上にはロート製薬の主力商品の看板が掲げられていた。この商品看板はTBSチャンネルでの再放送でもそのまま放送しており、番組冒頭にはその旨の断り書きがある。解答者席の両側にはコンパニオンの出入口が配されているが、これが使われるのは10万点獲得時と図表や物品を解答者に見せるとき(問題の頭に「ちょっとこちらをご覧ください」の一文が入る)である(コンパニオンはエンドクレジットに名前が出るが、どちらのケースもない場合は姿を見せない)。なお番組のセットは6代目まで続いた。
解答者席は出演者の後方に解答モニターが設けてあり、正解の場合はそれが赤バック、不正解の時は青バックとなる(番組開始当初は解答モニターは棚に飾る状態でのせていたがのちに番組セットの壁でモニター画面の部分以外はすべてふさいだ。解答モニターはほかに司会者席にも横に1列並んで設置されている〈解答者席にあるのと同様に画面は青バック・赤バック表示〉ものと、番組を見ている視聴者に見せるために「ただいま解答中!」として上3列下2列に並んで設置されているものがあるが画面は白黒である)。また解答者のテーブルには解答者の倍率(オッズ)が電光表示され、正解すると電飾が点滅する。出場者席のテーブルにはパネル形式で上にその問題の掛け金、下に現在の獲得金額がそれぞれ表示される。得点表示はソラリー(反転フラップ)式(鉄道ファンが言うところの「パタパタ」、縦横方向は違うものの同じロート製薬提供の、MBS「アップダウンクイズ」の賞金表示板と同じ仕組み)で、賭けた回答者が不正解のときは動作音が響いていた。
出場者は番組開始当初、手元にある出演者のネームプレートを差し込んで賭け点入力もしていたが、入力がスタッフに一任されてからは、その出演者に対する褒め言葉を言いつつ賭け点を賭ける。賭けられた解答者の席には賭けたチームが書かれたポールが自動的に立つ(「クイズまるごと大集合」や「お正月特番」では賭けたチームが書かれたポールが自動的に立つのは3チーム分(赤、黄色、緑)までしか対応していないため特番のために増設したもう1チーム分(青枠)は出場チームが書かれたネームプレートを賭けられた解答者自らが答えを記入する前にポールを立てる(差し込む))。獲得すると出場者席の後方とテーブルの電飾が点滅する(但し、10万円以上になった場合はファンファーレが鳴らされるとともに、出場者席上に吊るされたくす玉も割られて、紙吹雪と紙テープが降った。ちなみに、くす玉割りはスタッフの機械操作で行われていた。この方法は毎日放送の『アップダウンクイズ』の末期でも使われていた。)。番組開始から1987年9月まで使われていた後方の電飾は欧米の多くの競馬場(近年は日本でも)に採用されている競走馬の蹄をイメージしたゴール盤を模したものである。出場者席の配色は左から赤、黄色、緑(「クイズまるごと大集合」や「お正月特番」の場合はもう1つ青枠が登場)であった(番組開始当初は色分けされておらず、くす玉もなかった。)。
[編集] ルール
番組及びルール考案者は、司会である大橋巨泉である。毎回3チーム(番組開始当初は個人、後に2人一組、「クイズまるごと大集合」では4チームの時もあり)の一般視聴者(時にはタレント・著名人・スポーツ選手)と、5人(初期は6人)のタレント解答者が登場する。視聴者(出場者)チームはその問題に対して誰が正解するかを一人予想し、持ち点(3000点からスタート。「クイズまるごと大集合」ではこれまでのクイズで獲得した点数に3000点をプラスしてのスタート)の範囲内100点単位で賭ける。解答者には問題に応じた倍率が設定されており、視聴者が指名した解答者が正解した場合は賭け点と解答者の倍率をかけた得点が与えられ、不正解だと賭け点分のみマイナスとなる。ただし、解答者が全員不正解の場合には点数の増減はなく、賭け点はすべてお返しすることになっている。
問題は全部で8問で、そのうち1・3・5・8問目は一般問題、2・4・7問目は三択問題、6問目は作詞(歌詞)問題というのが基本である(ごくまれに最初の1問目で作詞問題が出題された事もある)。出題後の解答者側の倍率を表す時には必ず決め台詞として「倍率ドン!!」といっているが、最後の問題では倍率が2倍になり、倍率の表示時には「倍率ドン!さらに倍!!」(巨泉)、「倍率ドン!さらに倍してドン!!」(徳光)という決まり文句がある。なお、問題を解くカギとして、問題文にヒントがあるのでそこから答えを連想することである。知識より勘を問う問題が多かった。
視聴者が指名した解答者が正解したらファンファーレが鳴り、持ち点が1チームでも10万点に達したら番組のエンディングで流れるテーマ曲の一部分がファンファーレとして鳴りくす玉が割られて、紙吹雪と紙テープが降る。なお、どのチームも指名しなかった解答者だけが正解の場合はファンファーレは鳴らず、拍手だけが入るのみである。解答者が考えている時に流れる曲は、フォスターの『草競馬』をアレンジした物である。
「全員不正解」という事態は、番組当初においては想定されていなかったため、初めてこの状態が出現した際には、通常通り「不正解者に賭けた」こととして処理された。が、その翌週に「そもそも誰が正解しているかを当てるゲームであり、全員不正解というのは根本的にゲームが成立していない状態である」という見解が発表され、「全員不正解だと、賭け点はすべてお返しする」というルールが追加された。なお、「全員不正解」という状態が出現するのは数ヶ月に1回のペースで出てくるが、時には1週放送分の8問中2問が全員不正解だったことがある。もちろん全く逆に、解答者が全員正解だったときも年数回あった。
8問出題後、最終的に獲得した点数がそのまま1点=1円で賞金となる。最終問題に関係なく持ち点が10万点に達した場合、または0点になって失格となった場合、そのチームはゲーム終了となる(ただし、10万点に達したチームにはくす玉が割られて、アシスタントから男性は白、女性は赤のダービーハットがかぶせられる)。なお、10万円を超過した分は「TBSカンガルー募金」に寄贈される。これは製薬会社団体の取り決めと公正取引委員会の命令により、懸賞賞金が10万円までと定められていたため。大抵の回は10万点を超えるチームが出たが、全チーム0点という回も年に数回あった。中には、点数不足や計算違いで惜しくも10万点に届かなかったチームもあれば、解答者が不正解でも確実に賞金を持ち帰るため、最終問題で全額を賭けずに少し点数を残したチームもあった。そのほか、獲得賞金が数百円だったチームもあった。また過去の放送の中には、7問目までに10万点に達したチームもいれば、(番組初期の頃)7問目までに0点となり失格となってしまったチームもいた。その場合は残りの問題の正解者予想当てと点数賭けには参加できない。
賭ける点数の入力は初期においては、各チームは手元のボタン操作で解答者と賭ける点数を入力する形になっていて、司会者が話を振らない限り、各チームが言葉を発することはなかったが、後に賭ける点数の入力をスタッフに一任してからは、各チームが「いつも○○な」などとほめつつ「○○さんに○○点」や「○○さんに全部」と発するようになった。初代司会者である大橋巨泉が考案した(解答者の答をめくる時の)「せーの、ドン!」を筆頭に、出場者の発する「はらたいらさんに3000点」や「いつ見ても素敵な竹下さんに1000点」「篠沢教授に全部」や、司会者の発する「一人を除いて、みんな同じ答え」(主に三択問題でよく出るが三択でない問題でもごく稀にあった)や「○○さん以外は全部正解」、「○○さんが出来なければ(賭け金は)お返しします」、「賭け方が下手!」(正解者が多い時に出場者が不正解者ばかりに賭けていた場合)、「ここにくれば○倍だった」、「最後の問題です、よーく聞いてくださいね」「(エンディングで)○○さんに賭ければ10万円だったのに」などの言葉は伝説となっている。
番組初期の頃は、解答者の倍率を司会の大橋巨泉と、レギュラーオッズマンの藤村俊二と、ゲストオッズマンの3人で決めていた。これは、解答者の正解不正解を、競馬の予想マーク(◎○△×)で予想するもので、3人全員がマークを付けない状態では「10倍」であり、マークの種類と個数に応じて倍率が下がっていった。ただし、どのマークでどれだけ下がるかの規則性は、番組内では明らかにされなかった。なお、競馬の予想マークは倍率の下に表示していた。その後、解答者が6人から5人に整理された際に、大橋巨泉が単独で倍率を決める方法に改められたが、「最高倍率は10倍(最終問題は20倍)」というルールはそのまま継続された(このリニューアルについて巨泉は「複雑すぎて視聴者に受け入れられず、視聴率が取れなかった。それなら思いっきり単純にしようと思って、オッズマン制をやめた」と後に語っている)。
そのオッズ設定については、1枠2枠5枠には5~10倍(最終問題は14・16・18・20倍)、3枠4枠には2・3・4倍(最終問題は3枠4倍、4枠6・8倍)が殆どの倍率表示である。正解率の高いはらたいらには、得意なニュースネタや野球、相撲、笑い話などの問題で、たまに「1倍」(ごくまれだが最終問題時には「2倍」)がついていた。滅多になかったが篠沢秀夫や竹下景子にも、又ゲスト解答者でも専門分野の問題のときに「1倍」がつくこともあった(実際藤島親方<当時。のち二子山>に、相撲甚句の数え唄の歌詞問題で1倍が表示された)。また、番組初期~中期の頃に「この問題はわからないだろう」という意味でごくまれに、はらには5倍(年に数回程度しか無かったが)、竹下にも5~10倍という高倍率が時々表示されていた。
なお、この番組での的中時の配当は日本における競馬のパリミュチュエル方式ではなく、いわゆる「n to 1」というブックメーカー方式で行われており、賭け金を賭けた時点では持ち点が減らないルールになっている。例えば3,000点を持っているチームが、3倍の解答者に500点を賭けて正解だった場合、3,000 + 500×3 = 4,500 となる。この番組で「1倍」という倍率が実在したのはこの計算方法のためである。出題は一般常識や時事関連、ギャグ満載のものが中心であるが中には出場者のタレントに関するエピソード問題や普通の辞書にも出ないユニークな漢字の出題もあった。なお、出題の際、出場者でも答えを知っている問題については解答に入る前に司会者から出場者に対し「答えを口に出さないように!」と注意する。
[編集] レギュラー解答者(職業)<レギュラーを務めた期間>
[編集] 「1枠」作家・大学教授枠
一発逆転枠。2枠よりは正解率は高め。主に文化人が入る枠であるが、意外と知らないことがあるということを見せてくれた。
- 畑正憲(作家)<1976年1月。第1回放送時のみ?>
- 鈴木武樹(明治大学教授・故人)<1976年1月-1977年4月?>
- プリングス・ハイム(音楽家)<1977年4月?-1977年5月。鈴木教授が選挙に出馬するため降板した繋ぎとして短期レギュラー>
- 和久峻三(弁護士・推理作家)<1977年5月-1977年8月>
- 篠沢秀夫(学習院大学教授)<1977年9月-1988年7月>
- 北野大(淑徳大学教授・ビートたけしの実兄)<1988年8月-1991年7月。レギュラー前にもゲスト解答者として過去1回登場>
- 植草克秀(タレント・少年隊)<1991年7月-1992年6月>
[編集] 「2枠」女優・タレント枠
大穴枠。長山まではベテラン女優・タレント枠であったが、4枠の竹下景子が長く出演したので、宮崎の時代から若手女性タレント枠に転向。宮崎曰く「オトボケの2枠」通り、連敗記録が多く出た枠でもあった。
- 五月みどり(女優・歌手・タレント)<1976年1月-1977年1月>
- 沢たまき(女優・政治家・故人)<1977年1月-1977年9月>
- うつみ宮土理(女優・タレント)<1977年10月-1978年8月>
- 高峰三枝子(女優・歌手・故人)<1978年9月。うつみ宮土理が病気のため降板した繋ぎとして短期レギュラー>
- 南田洋子(女優)<1978年10月-1979年9月>
- 長山藍子(女優)<1979年10月-1981年9月>
- 宮崎美子(女優・タレント)<1981年10月-1983年9月>
- 斉藤慶子(女優・タレント)<1983年10月-1985年3月>
- 山崎浩子(タレント・元新体操五輪代表選手)<1985年4月-1988年2月>
- 井森美幸(タレント)<1988年2月-1992年6月。レギュラー前にもゲスト解答者として過去3回登場>
[編集] 「3枠」漫画家枠
本命枠。はらを中心にパーフェクトな正解を見せてくれた。
- 黒鉄ヒロシ<1976年1月-1977年1月>
- はらたいら(故人)<1977年1月-1992年6月>
- 福地泡介(故人)<1981年4月>
- 秋山豊寛(元TBSキャスター・日本人で初の宇宙飛行士)<1992年7月-1992年12月>
- 加賀まりこ(女優)<1992年7月-1992年12月>
- (福地ははらたいらのスケジュールが合わず代役として。秋山・加賀は番組終了まで約半年間の週代わりレギュラー。この間も、はらは最終回も含め不定期で出ていたが、竹下景子よりも早く番組出演を終えている)
[編集] 「4枠」女子大生枠
対抗枠。ほぼ「竹下景子のための枠」と言っても良いほどである。
- 萩尾みどり(女優・当時千葉大生)<1976年1月-1976年7月?>
- 岸じゅんこ(タレント・当時国学院大生)<1976年7月?-1976年9月。日テレ『ウィークエンダー』のレポーターとして活躍していた>
- 竹下景子(女優・当時東京女子大生)<1976年10月-1992年12月>
[編集] 「5枠」
- (ガッツ石松が降板後の5枠は、番組終了までゲスト解答者の席となる)
[編集] レギュラー解答者のエピソード
各解答者の個性も番組の魅力であった。ここでは篠沢、はら、竹下の3名を中心に取り上げており、2枠の女性レギュラー陣に関しては上記「2枠」女優・タレント枠のそれぞれの個人名を参照の事。
[編集] 篠沢秀夫のエピソード
- 篠沢秀夫は、毎回番組のオープニングで司会の大橋巨泉から前週の成績が発表される際に、成績が悪い(2勝以下)時は「上品で良いですね~」とニッコリ微笑み、成績が良い(3・4勝以上)ほど「下品でダメですな~」等と嘆いていた。不正解の解答には、教授ならではの珍解答や迷解答が多く、特に笑い話やジョーク等の出題で意味不明の事を書いたりもしたため、巨泉に呆れられたり、竹下景子や左隣に座る2枠の女性レギュラー等によく失笑されていた。それでも篠沢本人曰く「クイズになんか当たらない方が美学である」と、連敗記録を伸ばせば伸ばす程に堂々と胸を張っていた。
- しかし、篠沢教授の正答率は3割2分8厘(平均2勝6敗~3勝5敗ペース)と、意外に歴代の2枠女性レギュラー陣(五月みどり、うつみ宮土理、宮崎美子以外)よりも「下品」な成績を残している。又6問目の音楽の歌詞(作詞)を当てる問題では、時々正解することもあったので、巨泉からは「作詞の明主(めいしゅ)」と呼ばれたりもしていた。滅多に無いが難問で篠沢ひとりだけ正解という出来事も発生している。また、篠沢の最高成績は6勝2敗で、番組初期の9問出題の頃には7勝2敗という成績も有り、最高で9連勝という記録も達成した。特に篠沢自身が正解を知っている問題が出題された時は、正解した後に「実に不愉快ですなあ~」と苦笑いを浮かべることも時々あった。さらに篠沢は三択問題等で正解すると、自慢げに解答の理由を説明する事が有り、巨泉はその度に「問題が出来ると色々と言うんですよ、教授という人は!」と呆れながら語っていた(1枠レギュラー後任の北野大も同様の傾向があった)。
- 篠沢教授の1枠レギュラー期間は約10年10か月で、4枠レギュラーの竹下景子、3枠レギュラーのはらたいらに次ぐ、クイズダービーにおいて歴代3位となる長期間のレギュラー出演だった。1988年7月30日の放送回をもって、クイズダービーの1枠の席に座るのが最後となったものの、降板後もしばしば5枠ゲスト解答者として登場している。1992年12月のクイズダービー最終回にも、当初は篠沢も出演する予定だったが、病気で入院していた為に断念、代わりに北野大が登場した。
- クイズダービー終了後の篠沢は、2000年末の「SAMBA-TV」復刻版と、2004年5月の復元スペシャルの両方とも、長年の指定席だった1枠に座っての出演となった。その時の倍率はかなりの高齢ということもあり、2000年の2枠・久本雅美、2004年の2枠・井森美幸よりも倍率が高くなっていた。篠沢の成績はそれぞれ1勝7敗と1勝4敗で、またとある問題で「ひとりを除いてみんな同じ答え」となった際、篠沢ひとりだけ不正解だったという現象も、共に1題ずつ発生した。しかし、レギュラー出演時とあまり変わらなかった「上品」な成績結果に、終始篠沢らしいにこやかな笑顔を浮かべていた。
[編集] はらたいらのエピソード
- 「はらたいらに3000点」は「倍率ドン!」「三択の女王」と同様に、番組終了後もこの番組を語る上での重要なキーワードの一つとなっている。
- はらたいらは正解率が非常に高くて倍率も低い傾向があり、連続正解率から「宇宙人」と呼ばれていたが、「事前に答えを聞いている」「問題ははらたいらが作った」とまで言われていた。しかし正解率が高かった理由に、時事漫画で知られるはらは、毎朝複数の新聞や週刊誌等を読み、そこからクイズに出てきそうな問題を予想していたからという。番組出演時には度々「回答を知っているんですか?」、「問題ははらさんが作成しているのですか?」と聞かれたそうでその時はいちいち説明するのが面倒なので「そうですよ」と答えていたという。
- 難しい問題や出場者チームの点数が少なくなると、集中して指名されることから「困った時のはら頼み」ということもあった。はらの正答率は7割4分8厘(平均6勝2敗ペース)、年に数回は8戦全勝を達成している。過去に4勝以下になったこともあったがごく稀にしかなかった(最低成績は2勝6敗)。そんな中はらは三者択一問題が苦手で、連勝記録がストップしたのは殆ど三択だった(はらの三択正解率は約57%)。年に何度かはその三択で3問全滅となったり、はら一人を除いて全員正解という現象も発生しているが、それでもはら一人だけ三択で正解するケースもある。巨泉は「クイズダービーの問題の作成者は、いかにしてはらに三択で間違えさせるかに命をかけている」とまで言っていた。
- 他には何故か「カラオケの帝王」という異名も定着していたが、実際のはらはカラオケで歌を披露する事は殆ど無く、又作詩の問題も三択同様あまり得意では無かった。そしてはらは、普段からあまり表情を顔に出さない為、出場者等から「いつもクールな」、「無表情のはら」と言われる事が有った。さらには、かつて右隣に座っていた2枠レギュラーの山崎浩子が毎週必ず髪型を変えるのに比べ、はらは殆ど髪型を変えていなかったため、ある日出場者からは「いつも同じヘアースタイルのはらたいらさんに1000点」と指名されたこともあった。
- 最終問題において賭ける側の持ち点がはらに賭けても到底10万点に到達しない場合や、途中の問題において誰もはらに賭けない場合があった。その時の正解がはらでもわからない難しい問題であったりした場合、「どうせ賭けられていないから」と回答を諦めてしまう場合があり「わかりません」、「らくだぁ」等のいい加減な回答をすることがあった。巨泉には「なんですかその答えは?」、「彼は賭けられていないと真面目に回答しないんですよ。」と突っ込まれていた。
- はらは「シャレがきつくないとダメ」と言ったように、クイズダービーの問題作成者の作成傾向を実に的確に読んでいたため正答率が高かったと後に語っている。
- また、はらは漢字を間違えて書いてしまうことが時々あった。例えば「座頭市」の解答を「座頭一」と書き、「これじゃ『ざとうかず』だよ」と巨泉から冷やかされたり、とある最終問題の解答の際にも、「税務署」を「税務所」と間違え、同じく巨泉に「それは刑務所の『所』です!」と指摘されたこともあった(その時の最終問題は篠沢教授を除いて全員正解で、正しい「税務署」と書いたのは竹下景子と当時2枠の山崎浩子。はらと5枠ゲストの渡辺正行は間違った「税務所」と書いていた)。
- はらは2000年末に放送された「SAMBA-TV」の復刻版において、前半戦は2勝3敗の出来(1問目はなんとはらを除いて全員正解)で巨泉曰く「絶不調」。出演者は本放送当時のイメージからか「困ったときのはら頼み」を続けていたが、巨泉は「はらたいらはもう70過ぎてるんですよ!」とギャグを飛ばした(当時はらの実年齢は57歳)。だが、流石ははらであり、最終問題では4人が立て続けに不正解の中はらひとりだけが正解、後半戦3連勝で結果5勝3敗の成績となった。しかしその約3年半後、2004年5月放送の復元スペシャルでは、はらは苦手の三択問題で2問共に不正解(他3問は正解なので合計3勝2敗)。出場者側の緑チームに座っていた安めぐみに「はらさんホント三択ダメですね」と言われる始末で、はらは珍しく不機嫌そうに「そんな事無いよ!」と安に言い返したが、会場全体は思わず失笑していた。
- ちなみに、番組末期の頃、はらが偶然にも次の問題の答えを書いてしまったことがあり、加賀まりこや秋山豊寛に交代したことが過去にある(解答者が予め答えを知っているわけではないので、次の問題の答えと気づいたスタッフが慌てて降板させた可能性はあるが、はらが番組終了前に殆ど出演しなくなったのはこの影響か?)。※
※以前に番組開始当初放送作家を担当していた故・景山民夫が述べたという都市伝説で、1回2本撮りで偶然にも次週の同じ問目の答えを書いてしまい、それに慌てたスタッフが協議の上、客を全て入れ替えて撮り直しさせた説、そもそもこんな事実は無いとする説など、複数の説が存在する。
[編集] 竹下景子のエピソード
- 竹下景子は当初女子大生としてのレギュラー出演だったが、その後産休や番組末期等を除いて、約16年もの間4枠の席を誰にも譲る事なく、クイズダービーにおいて史上1位の出演記録を達成した。竹下の正解率は、一般問題も割と高めではあったが、特に三者択一問題は、右隣の3枠はらたいらよりも竹下の方が強かったため、いつの間にか「三択の女王」と呼ばれるようになった。そして三択問題で竹下1人だけ正解のときは、司会者が「さすが三択の女王で御座いますね~!」と叫んでいる(竹下の三択正解率は約82%)。
- しかし、竹下の三択の解答は殆ど山勘だった事が、2004年5月にTBSテレビで放送された「もう時効だョ全員集合史上最強!花の芸能界オフレコトークバトル」で本人の口から明らかになった。滅多に無いが得意なはずの三択で竹下一人だけ不正解となったり、三択3問全て敗退という珍事も発生している。ある日司会の大橋巨泉からは「困りますねえ、折角三択の女王という良い名前つけたのに。今度から名前を変えてセンタク(洗濯)の女王にしますよ!」と言われた事も有り、竹下は「イヤだ!イヤ・・・」と苦笑しながら嫌がっていた。なお、竹下の正答率は6割3分2厘(平均5勝3敗ペース)だったが、最高成績は8戦全勝、最低成績は1勝7敗と、週により好不調の波があった。
- また竹下がレギュラーになって間もない頃、全然成績が良くなかった竹下はとても悔しかったため、シンキングタイムではらたいらがマジックで答えを書く音を聞いた後に、どういう答えを書いているのかをカンニングする事があったという。ある日の問題で、はらが「上野」と書いたと分かった竹下は、すぐさま「上野動物園」と書いたが、はらが書いた答えは「上野駅」だった。このカンニングをした話をはじめて聞いた巨泉は驚いたという(この時の詳しいエピソードについては、別記を参照)。
- さらに竹下は、普段から無表情のはらたいらとは対照的に、よく喜怒哀楽を表情に出していた。例えば、出場者に指名されたものの不正解となり点数が減点される時には、ほぼ毎回出場者に対して申し訳無さそうに「ごめんなさい」と謝っていた。さらにとある最終問題で、出場全3チームに指名されたが正解出来ず全員0点(他の解答者が正解したため)となった時、竹下は悔しさのあまり思わず泣いてしまった事があった(収録終了後、篠沢教授やはらたいら達が自分自身を責め続ける竹下を慰めていたという)。逆に最終問題で竹下に賭けられて正解した時には、「アー、ヨカッター!」とよく安堵の表情を見せたりもしていた。他には竹下が30歳を過ぎた頃、巨泉から年齢の話になったり、直接「オバサン」呼ばわりされた際、竹下は巨泉に対して不機嫌な表情で睨んだり、「私はまだ中年じゃ有りません!」と怒鳴ったりする等の事件が起こったが、その度に他の解答者達は苦笑いしていた。さらには竹下以外の解答者が、珍解答や迷解答を書いて巨泉に突っ込まれた時には、竹下は思わず爆笑して、顔や口を抑えたり等する事があった。逆に、竹下自身が珍解答や意味不明の解答を書き、不正解となって巨泉に指摘された時、竹下は恥ずかしそうに苦笑しながら俯いていた。
- 2000年末「SAMBA-TV」復刻版での竹下の成績は、8問の内得意の三択問題は3戦全勝だったが、他の一般問題は最初の第1問目だけしか正解とならず、合計4勝4敗とやや不調だった。特に6問目の歌詞問題では(この回は1976年大ヒット曲の「およげ!たいやきくん」より)全3チームに賭けられたものの不正解、全てのチームを減点させてしまい、竹下は「アー、ごめんなさーい!」と謝罪していた。しかし2004年5月の復元特番では、竹下一人だけが全問(5問)正解を見事に達成している。エンディングで会場全員は竹下に対して、大きな拍手が送られた。
[編集] その他の解答者のエピソード
- 初代3枠レギュラー解答者だった黒鉄ヒロシは、解答をあきらめるときがあり「裏切り狸」と呼ばれた。その後黒鉄は本業の漫画家に専念したいという理由により、約1年でレギュラーを降板し、その後はらたいらへバトンタッチとなる。正答率は6割6分2厘であった。
- 篠沢教授の降板後1枠を引き継いだ北野大は、1988年2月6日の放送で5枠ゲスト解答者として初登場したときに、なんと6勝2敗で勝率7割5分という好成績をあげた。その約半年後に1枠レギュラーを務め始めたが、その頃は篠沢同様勝率は低く、特に奇怪な解答をした時には、巨泉から名前を逆読みした「大野北〔おおの・ぺー〕さん」と呼ばれる事があった。これは巨泉だけでなくたまに出場者からも言われている。また、時には「きたのだいさん」と呼ぶこともあった。
- しかしその後時が経つにつれ北野の正解率は高くなり、平均4勝4敗~5勝3敗ペースにまで上がった。番組側によると、このままでは北野は1枠の役目を果たせないという意向が有り、その後間もなく植草克秀へ交代となった、という話が有る(他、弟のビートたけし司会の「平成教育委員会」が近々同時刻に裏番組で始まるから、という説も有り)。それでも北野の1枠レギュラーでの通算勝率は2割7分3厘(平均2勝6敗ペース)、篠沢よりも上品な成績となっている。ちなみに植草の正答率は2割8分2厘。
- ある時、北野大の弟のビートたけしがゲストで出場した際に、「欧米人にアジアで一番有名な人物は?」の問題で、兄はまじめに考えすぎて蒋介石と書いて不正解、たけしは最初ギャグで書いたたこ八郎とマイケル・ホイを消して、ブルース・リーと書き直して正解、という事があった。また北野がレギュラーの際に放送されたクイズまるごと大集合でたけしが司会者だった時には、兄が不正解だと弟は「あんちゃん、大学教授なんか辞めろ!」とひやかしていた。
- 斉藤慶子の2枠レギュラー起用について巨泉は当初猛反対した。理由は竹下景子と同じ「けいこ」のため竹下を「けいこちゃん(さん)」と呼んでいる自分がやりにくくなるからというもの。斉藤に対し芸名を変えてもらうよう要請する事も考えたようだが、結局は巨泉が折れて「斉藤慶子」でレギュラー出演した。
- 井森美幸の2枠レギュラー起用の時は、井森の他に女優の杉浦幸がレギュラー候補に挙がっていた(井森と杉浦の二人はかつて同じホリプロ所属だったが、杉浦はその後ホリプロから独立)。杉浦はゲスト解答者として登場した際に、当時若い女性の間で流行していた丸文字で答えを書き、巨泉の興味を引いていた。
- なお、5枠は当初ガッツ石松が座っていたが、その後整理され1枠減って初期は6枠だったゲスト枠となった。末期(1992年7月以降)ではレギュラーも含めて1枠から5枠の解答者が毎回変わっていた。その頃には長年4枠レギュラーだった竹下景子が、3枠の席に座っていた事も有るという。
[編集] 歴代ゲスト解答者
あ行 市川海老蔵(10代目、現在の團十郎)、石川さゆり、青木雨彦、石原良純、江守徹、◎楳図かずお、◎赤塚不二夫、市川森一、大島渚、◎小沢昭一、市毛良枝、◎大谷直子、石坂浩二、梓みちよ、浅田美代子、五木ひろし、青木茂、東八郎、いかりや長介、浅井慎平、◎浅野ゆう子、秋野暢子、稲川淳二、生島ヒロシ、◎小川知子、◎相原勇、◎植木等、◎大和田獏、◎秋山竜次(ロバート)、岡江久美子、井岡弘樹、小倉智昭、◎泉ピン子、青島幸男、青木さやか、飯塚雅弓、うえだゆうじ、緒形拳、沖雅也、荒井注、大村崑、植木等、沖田浩之、◎安部譲二、秋吉久美子、石黒賢、◎織田裕二、赤井英和、◎阿部寛、小田島雄志、◎岡田眞澄、出光ケイ、安孫子素雄、小野ヤスシ、伊原剛志
か行 黒沢久雄(勝率はゲスト解答者としては第1位)、桂米朝、桂三枝、児玉清、川崎敬三、加納みゆき、◎小林繁、木の実ナナ、叶和貴子、金子信雄、◎柏原芳恵、◎加藤茶、京本政樹、◎研ナオコ、◎小柳ルミ子、桑田佳祐、久和ひとみ、桂三木助、上村香子、岸千恵子、◎小堺一機、桂歌丸、香川伸行、川上麻衣子、片岡鶴太郎、◎草野仁、かとうれいこ、KAORI、蟹江敬三、かとうかずこ(現・かず子)、上岡龍太郎、風間トオル、神津善行、栗本慎一郎、◎栗本薫(別名の「中島梓」名義で)、◎神田正輝、紺野美沙子、◎絵門ゆう子(当時の芸名は池田裕子)、北方謙三、栗田貫一、川合俊一、かまやつひろし、◎嘉門達夫、神谷明(真偽不明)◎後藤久美子、五大路子、◎黒木瞳、小島一慶、菊地涼子
さ行 ◎三遊亭圓窓、清水善三、三遊亭圓歌、里見浩太朗、世良譲、杉浦日向子、冴木杏奈、白都真理、◎ジェームス三木、斎藤晴彦、◎杉浦幸、笑福亭鶴瓶、関根勤、椎名桜子、定岡正二、◎酒井法子、杉本彩、そのまんま東、清水ミチコ、◎堺正章、榊原郁恵、春風亭小朝、佐良直美、関口宏、島田紳助、佐野量子、陣内孝則、◎島崎和歌子、◎坂上二郎
た行 高橋名人、◎タモリ、◎田原俊彦、田中小実昌、高樹澪、富山敬、◎東野英治郎、東野英心(出演当時の芸名は東野孝彦)、出門英、戸張捷、◎土井たか子(出演当時は日本社会党委員長)、高島忠夫、つのだひろ、刀根麻理子、田代まさし、戸川京子、◎筑紫哲也、◎所ジョージ、ちはる、檀ふみ、◎ダンプ松本、高橋由美子、田中義剛、高橋英樹、ちあきなおみ、玉置宏、常田富士男、◎富田靖子、ダニエル・カール、チャーリー浜、宝田明、立花理佐、◎田村英里子、◎時任三郎、徳光和夫(最終回)
な行 ◎夏目雅子、中井貴惠、中村泰士、中村紘子、◎西村晃、中嶋常幸、西川のりお、◎野坂昭如、ねじめ正一、夏木マリ、錦織一清、野田秀樹、野沢那智、西田敏行、中村橋之助(3代目)、中野浩一、◎中村雅俊、◎中村玉緒、◎中尾ミエ
は行 ◎藤島親方(元大関・貴ノ花 後の二子山親方)、堀江美都子(本来は歌手であるが実際に同番組では女優として出演)、橋幸夫、福地泡介、羽仁進、◎板東英二、平田昭彦、林葉直子、◎ビートたけし、◎富司純子、東山紀之、橋田壽賀子、別所哲也、◎福留功男、ぼんちおさむ、原日出子、古谷一行、◎古舘伊知郎、布施明、羽野晶紀、細川ふみえ、◎林家こぶ平(現・9世正蔵)
ま行 ◎宮尾すすむ(勝率はゲスト解答者としては第2位)、三ツ木清隆、松井菜桜子、◎松崎しげる(自称『クイズの帝王』 歴代のゲスト解答者の中では最多出場の21回の記録が残っている)、三波春夫、◎森昌子、◎森光子、水野晴郎、前田武彦、真屋順子、森口博子、森田芳光、◎森末慎二、円広志、◎森本毅郎、◎松田聖子、◎松本伊代、◎汀夏子、諸星和己、松雪泰子、◎的場浩司、宮川泰、本木雅弘
やらわ行 山田康雄、山藤章二、若原一郎、渡辺美佐子、湯原昌幸、竜虎、◎和田アキ子、◎山田邦子、◎渡辺正行、レオナルド熊、若原瞳、矢口高雄、渡辺文雄、四方義朗、泰葉、◎山口美江、山口智子、◎ゆうゆ(岩井由紀子)、吉幾三、◎山瀬まみ、◎山城新伍、山本直純、◎由紀さおり、◎吉村明宏、薬丸裕英、◎ラサール石井、◎安めぐみ
太字は過去に全問正解を達成したゲスト解答者である。◎印は出場者(ギャンブラー側 復活特番、クイズまるごと大集合での参加も含む)としても登場したゲスト解答者である。
[編集] 歴代出題アシスタント<アシスタントを務めた期間>
- 丹羽節子 <1976年-1980年>
- 保田裕子 <1980年-1984年>
- きゃんひとみ(当時琉球放送アナウンサー)<1984年-1985年>
- 小池達子(元テレビ愛媛アナウンサー)<1985年-1990年>
- 渡辺真理(当時のTBSアナウンサー)<1990年-1992年>
このうち、きゃんひとみは保田が降板した後の短期間の繋ぎであった。
過去2回の復活特番ではいずれも小池達子が出演している。渡辺真理は司会が徳光和夫に交代した後に就任したため、渡辺と大橋巨泉との組み合わせは最終回の一度だけであった。
[編集] オープニングとエンディングの変遷・提供読み
※エンディングには番組テーマ曲が流れた
- 初期:(開始~1986、3)
- OP・ロート製薬のオープニング
- ED・次回の予告(静止画・女性ナレーション)⇒赤地に白抜きで「クイズダービー おわり」の表示⇒「提供はロート製薬でした」の女性ナレーション
- 中期:(1986、4~1990、3?)
(ただし昭和天皇の病気により、1988年9月頃から1989年1月までは「♪ロート…」のオープニング放映がなく、テーマ曲+「この番組はロート製薬の提供でお送りします」のパターン)
※当時放送されていた他のロート1社単独提供番組も同様の措置となった - 後期:(1990、4?~終了)
- OP・ロート製薬のオープニング(ロゴマークが変更)
- ED・次回の予告(VTR収録・5枠のゲスト本人が出演、出場チームは字幕スーパー)⇒中期と同じ
[編集] スタッフ
- 構成 : 菅谷健一
- 出題 : 林利根男、毛利知於、前岡晋、雀部俊毅、八木伸栄
- 出題作家グループの愛称は「チャーリー」。これは篠沢秀夫の命名。
- 音楽 : たかしまあきひこ、ボブ佐久間(テーマ曲・効果音は放送期間中一貫して変わらなかったが同番組のステレオ放送化と同時にステレオ収録にアレンジしたものに変わっていた。ちなみに同番組のステレオ放送化は1978年11月25日放送分からで、同放送化はクイズ番組初だった。なお、北海道放送の札幌地区以外の地域は番組終了までずっとモノラルでの放送だった。しかし、現在再放送されているCS放送のTBSチャンネルではステレオ放送されているため北海道放送の札幌地区以外の地域でも地上波では一度も聴くことがなかったステレオ放送を楽しむことができる)
- 美術デザイン : 山田満郎、浦上憲司
- タイトルロゴデザイン : 山形憲一?
- ディレクター : 副島恒次、山口安広、木崎武重、山崎 玲、小畑光良
- プロデューサー : 居作昌果、副島恒次、山口安広、小畑光良
[編集] ネット
- 東京放送(製作局)
- 北海道放送
- 青森テレビ
- 岩手放送
- テレビユー山形(1989年10月開局から番組終了まで)
- 東北放送
- 福島テレビ(番組開始から1983年9月まで)
→テレビユー福島(1983年12月開局から番組終了まで) - 新潟放送
- 信越放送
- テレビ山梨
- 静岡放送
- チューリップテレビ(旧・テレビユー富山) (1990年10月開局から番組終了まで)
- 北陸放送
- 中部日本放送
- 毎日放送
- 山陰放送
- 山陽放送
- 中国放送
- あいテレビ(旧・伊予テレビ) (1992年10月開局から同年12月の番組終了まで)
- テレビ高知
- RKB毎日放送
- 長崎放送(1976年1月~3月は同時ネット、1976年4月~1984年3月は6日遅れの金曜19:00から、1984年4月~番組終了まで再び同時ネット)
- 熊本放送
- 大分放送
- 宮崎放送
- 南日本放送
- 琉球放送
この番組は、珍しく他系列では放送されなかった。同じTBS系列のテレビ山口でも他キー局(フジテレビ系。1987年9月まではFNSにも加盟していた)の番組編成の都合で放送されなかった(ただし1時間のスペシャル版、2000年末と2004年の復活特番ではテレビ山口でも放送された)。理由としては、スポンサーであるロート製薬の推薦上の事情があったためではないかと思われる。(同じロート製薬提供の毎日放送制作「アップダウンクイズ」がNET系列時代に同系列がメインの北海道テレビ・青森テレビ(毎日放送と同時期にTBS系にネットチェンジ後に放送開始)・広島ホームテレビにネットされなかったのも同様の事情と考えられる)
[編集] クイズダービーゲーム
1979年にタカラによりクイズダービーの盤ゲーム化が行われている。
ゲームの形式は実際の番組と同じ正解者を当て、賞金を増やしていくものであり、四択(A~D)の記入された回転ドラムのついた筐体と問題カードを使用する。筐体に問題カードを差し込むと正解の際の倍率が表示され、その倍率を元に払い戻しを行うが、ドラムに記入されたマークには偏りがあり、高い倍率のマークが出る可能性は低い。
ちなみに解答者の1枠~5枠は名前を伏せて「大学教授」「女優」「漫画家」「TV女優」「ゲスト」とされているが、4枠までは当時の出演者(篠沢秀夫、南田洋子、はらたいら、竹下景子)に顔が似ている。
[編集] 備考
- 前番組の「お笑い頭の体操」時に巨泉と共にレギュラー出演していた月の家円鏡は巨泉がクイズダービーを始めるときに俺も出演させてと頼んだらしいが、巨泉は断ったという。
- この番組の最高視聴率は、1979年6月30日放送分の40.8%だった(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。
- 1回の放送で作られる問題は問題作家15名×20問=300問にも上り、その中から8問が最終的に残る。単純計算する(放送回数862回を掛ける)と17年間で作成された問題数は258,600問となる。
- 解答者のギャラは正解数とは無関係だったため、はらたいらも篠沢秀夫も同じだった。また、視聴率も解答者の成績の良し悪しにかかわらず常に安定していた。
- 78年末、水曜劇場「ムー一族」にて足袋屋「うさぎや」の従業員役・樹木希林、岸本加世子が視聴者チームとして参加し、クイズダービー自体が劇中劇として扱われた。
- 最高獲得点数は1987年6月6日放送の819,000点。この時は巨泉も「すんごい!これは問題なく新記録です!819,000円!あ、違う?81,900円?ん!?はちじゅういちまんきゅうせんえん!!ちょっと待って下さい!と言う事は、ななじゅうきゅうまん・・・ん?711,000円?781,000円??何だかよく分からないけども...あ!?時間が無くなってしまいました!有難う御座いました!又来週!!」と、TBSカンガルー募金の寄付額を計算出来ず、巨泉は激しく動揺した状況のままエンディングになった事があった。この回は、7問目終了時点で39,000点を持っていたチームが、最終問題で4倍のはらたいらではなく、敢えてゲスト解答者だった20倍の関根勤に全部賭けたところ、なんと関根は正解した為(この時も篠沢教授を除いて全員正解)、莫大な獲得点数が表示されたのである。翌週の放送の冒頭で、巨泉は改めて「719,000円を寄付」という旨を伝えた。
- しかし、10万点を大幅にオーバーした得点を出したチームが出たケースはこの1987年6月6日の放送に限ったことではない。この時以外にも20万点越え、30万点越え、あるいは40万点越えを達成したチームが出るというケースが年に数回は出ていた。
- 賭けるのが大変上手だった出場者の中には、なんと6問目の終了時点で10万点を突破したペアがいた(1988年4月9日放送の奥田瑛二・麻生祐未ペアなど。5問目終了時点で71,000点、6問目は3倍の竹下景子に20,000点賭けた後、竹下が正解したので131,000点となった)。そのペアは勿論その時点でゲーム終了、7問目と8問目は賭けることができずお休みということがあった。
- 1986年3月にとんねるずが出場した回と、1988年10月に若山富三郎・池内淳子ペアが出場した回で、いきなり1問目から3000点全部を賭けようとした。とんねるずの時ははらたいらを指名して、はらの1問目の正答率9割以上を見越したものからだった。ところが若山富三郎の場合、最初から参加しようというやる気が全く無く不機嫌(この回はドラマ大会で、この年に放送された2時間ドラマ「妻たちの鹿鳴館」に出演した関係で出場)で、何故かゲスト解答者のビートたけしを指名し、不正解なら0点となりゲームが終了するので早くスタジオから出ようという考え(最終問題前で10万点に達したり0点になった場合も、体調不良等やむを得ない場合を除いて、収録が終わるまではスタジオから出ることは出来ない)からだった。しかし、とんねるずには「外れたら無くなっちゃうから止めなさい!!」、若山に対しては「3000点はまずいですよ、なくなっちゃうじゃないですか!早く帰ろうと思ってるなあ!!」とそれぞれ巨泉から言われてしまい、結局全額を賭けられなかったエピソードがある。それ以外の回でも過去に1問目で、はらたいらへ一挙に2000点や2500点を賭けたチームもあり、その度に巨泉は吃驚仰天していた。これもはらの10割近い正答率を見越したものと思われる。
- 連勝記録 1位:はらたいら27(2回)、2位:黒沢久雄24、3位:竹下景子15、4位:宮崎美子・土井たか子10、6位:篠沢秀夫9
- 連敗記録 1位:井森美幸27(23連敗2回あり)、2位:斉藤慶子24、3位:篠沢秀夫21、4位:長山藍子・山崎浩子20、6位:沢たまき17
- 1986年に将棋棋士の芹沢博文が著書(書名不詳、芸能界の暴露本)で「クイズダービーの解答がレギュラー解答者にこっそり教えてある」と書き、大橋巨泉の怒りを買う。巨泉本人は名誉毀損で訴えることも考えていた。同書でははらたいらも名指しで侮辱された。
- 番組開始当初に放送作家として携わっていた景山民夫も、著書の中で解答をこっそり教えている旨を書いていた。なかでも短編小説「トラブル・バスター」の中で、クイズ番組の解答者が教わっているという下りがあり、その解答者はマンガ家の「土佐源平」となっていた。これは明らかに、はらたいらを意識したものであると思われる。
- 大橋巨泉がレギュラー出演した最後の放送(1990年3月31日)の問題の中で、あるラジオ番組の投書を基にしたクイズが出題された。内容は「この番組での解答者に対する倍率を表す時の決め台詞『倍率ドン!!』を中学校の理科の授業で使った先生がいて、学校の中で流行っています。さて、どのような時にこの台詞を言うのでしょうか」というものだった。ちなみに解答は「顕微鏡を見るときの倍率設定」というもので、井森、竹下の女性2名とはらの3人が正解した。はらたいらと竹下景子は「顕微鏡を覗くとき」と書いており、これについて巨泉は「顕微鏡を見るというのが普通の人で、覗くと書くとスケベな人です」とコメントした。
- 徳光和夫が2代目司会者に起用される際、徳光の他の司会候補者として山城新伍、上岡龍太郎、板東英二、逸見政孝、古舘伊知郎、島田紳助らの名前が挙げられていた。最終的にはスポンサーのロート製薬が徳光を支持したため、徳光の起用が決まった。
- 本放送時、1問目と6問目の解答者が答えを書いているときは随時、「出場者募集」の告知テロップを流していたが、提供クレジットテロップから出していた(VTR編集時には挿入されていない)ため、TBSチャンネルでの放送ではこの告知テロップの表示はない。また、5問目にはTBSの放送エリアでのみ、公開録画の告知テロップを流していた(こちらもTBSチャンネルでの放送では表示されていない)。
- 公開収録開始前にホームランというお笑いコンビ(現在も活躍中)が前座(前説)をつとめていた(1988年10月放送分では出場者としても参加している)。
- 類似番組 競艇の専門チャンネルであるCS放送の日本レジャーチャンネルで、「クイズ競艇ダービー」という番組が放送されている。(2005年度から毎月1回ペースで放送)基本的なルールは本家のクイズダービーと同じだが、トップ賞を獲得したチームには番組のセットをモデルにしたミニチュア模型のフルセット(参加者全員にももれなくレギュラーセット)がプレゼントされる。また10万点以上獲得しての優勝の場合には賞金10万円が贈られる。
- なお、ごく稀にスタッフのセット操作ミスが出ている。例えば不正解だったにも関わらず井森美幸に赤ランプが点灯したり、10万点を達成したチームのくす玉が割れなかったりした。また、反対に正解したにもかかわらず青ランプが点灯したり、10万点を達成していないチームのくす玉が割れたこともあった。
[編集] 補足
番組終了後、毛染めパオン(山発産業、現・シュワルツコフヘンケル)、後に森永製菓の30秒のヒッチハイクが流れていた。
[編集] 関連項目
- クイズ番組
- クイズまるごと大集合
- クイズ100人に聞きました
- 世界まるごとHOWマッチ
- わくわく動物ランド
- ロート製薬
- とんねるずのみなさんのおかげでした - パロディ「トークダービー」を放送
[編集] 関連書籍
- クイズダービーベスト500(河出書房新社、1987年)ISBN 4309900275
- テレビじゃ見れないクイズダービー(河出書房新社、1988年)ISBN 4309900429
[編集] 外部リンク
- TBS - 制作局の公式サイト
- CS・TBSチャンネルによる『クイズダービー』の紹介
- QUIZ & VALETUDO(クイズダービー21)
- [1] - クイズダービー~巨泉の(徳さんの)クイズダービー!
- [2] - クイズダービーお宝画像
[編集] 前後番組の変遷
TBS系 土曜19時台後半ロート製薬1社提供枠(1976年1月 - 1992年12月) | ||
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前番組 | クイズダービー | 次番組 |
お笑い頭の体操 | クイズテレビずき |
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | TBS系テレビ番組 | クイズ番組 | 大橋巨泉のバラエティ番組 | ロート製薬