国鉄80系電車
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国鉄80系電車(こくてつ80けいでんしゃ - 1949年~1983年)は、日本国有鉄道(国鉄)が1949年に開発した、長距離列車用電車形式群の総称である(開発当時の国鉄には「系」「系列」という概念が存在しなかった)。
いわゆる「湘南電車」の初代車両となった電車であり、電車が長距離大量輸送に耐えることを立証した事で知られる。それまで国鉄の主力であった機関車牽引の客車列車を走行性能で大きく凌駕し、居住性の面でも初めて肩を並べた電車であった。その出現は、日本の鉄道、特に国鉄を世界に例のない「電車王国」とするきっかけとなり、その基本構想は東海道新幹線の実現にまで影響を及ぼした。
1950年から1957年までの8年間に亘り、大小の改良を重ねつつ652両が量産され、普通列車・準急列車用として広く運用されたが、1983年までに営業運転を終了し、形式消滅した。
目次 |
[編集] 車種構成
[編集] 新造形式
- クハ86形(制御車)
- 0番台(基本番台)
- 100番台(座席間隔拡大)
- 300番台(座席間隔拡大・全金属車体)
- モハ80形(中間電動車)
- 0番台(基本番台)
- 200番台(座席間隔拡大)
- 300番台(座席間隔拡大・全金属車体)
- サハ87形(付随車)
- 0番台(基本番台)
- 100番台(座席間隔拡大)
- 300番台(座席間隔拡大・全金属車体)
- サロ85形(二等付随車)
- 0番台(基本番台)
- 300番台(全金属車体)
- クモユニ81形(郵便荷物合造電動車)
- (1959年の形式称号改正前はモユニ81形)
[編集] 改造形式
- クハ85形(制御車)
- 0番台(サロ85形・サハ85形0番台改造)
- 100番台(サハ87形改造)
- 300番台(サロ85形・サハ85形300番台改造)
- サハ85形(付随車。サロ85形格下げ)
- 0番台
- 100番台(0番台の3扉化改造車)
- 300番台(ごく短期間のみ在籍。すぐにクハ85形に改造)
- クモニ83形100番台(荷物電動車。クモユニ81改造)
- モハ80形(身延線用パンタグラフ部低屋根化改造車)
- 800番台(モハ80形300番台から改造)
- 850番台(サハ87形100番台から改造。電動車化併施)
[編集] 沿革
太平洋戦争終戦後、東海道本線東京地区普通列車をラッシュ対策のために電気機関車牽引の客車列車から電車に転換する目的で開発されたものである。長年、客車列車を本流として電車を補助的に見ていた国鉄が、その方針を転換し、初めて開発した長距離輸送用電車であった。
[編集] 80系以前
東海道線における長距離電車の運転計画は、大正時代後期の国府津電化時から存在した。この時、長距離用電車の新製投入が計画され、実際にも製造が進められていたが、関東大震災の発生に伴い、被災車の補充が優先されたためにこの長距離電車計画は断念された。建造途上の長距離用2扉セミクロスシート車・デハ43200形は、急遽客用扉の増設と座席のロングシート化によって通勤車デハ63100形に改造され、その中間に組み込まれるべきサロ43100は京浜線に転用、いずれも長距離列車に用いられず終わった。
その後、大船駅で分岐する横須賀線については、1930年から東京-横須賀間約68kmで、従来の客車に代えて電車を導入し、速度向上やラッシュ対策の実績をあげた。翌1931年からは32系電車(モハ32・サハ48・サロ45・サロハ46・クハ47形)を新たに投入、2等車を含む2扉クロスシート車編成として居住性を改善している。
しかし、電車化の本命であった筈の東海道本線普通列車については、戦後まで長年にわたって、電気機関車牽引列車で運行されていたのである。
[編集] 80系の開発
終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、東海道線東京地区についても、横須賀線同様、加減速性能・高速性能に優れた電車を用いて列車運行頻度を増やし、激増する輸送需要を捌かねばならない状況に至った。
こうして当時工作局局長の職にあった島秀雄の主導の下、東海道線用長距離電車の開発が企画された。開発に際しては、鉄道技術研究所において研究が進められていた各種技術をふんだんに導入している。
東海道線の電化は1934年の丹那トンネル開通時に既に東京から沼津まで完了しており、国鉄はこの区間(約126km)の普通列車の電車化を企図した(電化工事自体は1949年中に静岡・浜松まで完成したが、諸事情から沼津以西への電車投入はやや遅れた)。
だが当時、日本の鉄道政策を掌握していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)第3鉄道輸送司令部(MRS)は、当時すでに衰退が始まっていた米国のインターアーバン(都市間電車)の事例から、100kmを超えるような長距離区間における長大編成電車列車の高頻度運行には懐疑的であった。また当時ドッジ・ラインの下で設備投資の抑制が図られていたこともあり、この電車化計画が必要とする新製車両の定数充足をも認めようとしなかった。
国鉄側は、このような障害をおして製造許可を得るために策略を用いた。横須賀線程度の短距離運転であるという名目でひとまず計画をスタートさせ、後から距離を延長して所期の目的を達成するという(後の新幹線計画の予算確保手法にも通じる)作戦を用いて、ようやくこの長距離電車計画にかかる予算を承認させたのである。
[編集] 営業運転開始後
1950年、80系電車は「湘南伊豆電車」(→「湘南電車」)の愛称の下で東海道線・伊東線での定期運行を開始した。
しかし本系列は、営業開始前から試運転列車の電動車が火災を起こして焼失するアクシデントに見舞われていた。また営業運転でも当初は初期故障の頻発に悩まされ、世間から「遭難電車」と不名誉なあだ名を受けたこともあった。だが、各機器の改良や設計の見直しによる初期故障の解消と、これに伴う性能の安定化が進むにつれ、客車並みの設備と乗り心地、それに何よりスピードアップ効果から利用者の支持を得るようになっていった。
運転開始から程なく「基本10両編成+付属5両編成+郵便荷物車1両」の16両編成での運転を行う様になったが、これは電車としては当時世界最長編成の列車であった。1950年代中期までに東海道本線電化の西進に伴って中部地方に運用領域を拡大し、また京阪神地区や高崎線などにも投入された。
接客設備が電車としては良好であったことから、1950年の運行開始からまもなく伊豆方面への温泉準急列車「あまぎ」に用いられ、高速運転で好評を博した。
その後、1957年には東京~名古屋間を運行する準急列車「東海」、名古屋~大阪間を運行する準急列車「比叡」に、それぞれ準急列車仕様の80系300番台車が投入され、従来の客車急行列車をも凌ぐ俊足により、電車でも長距離の優等列車が務まることを実証した。これはその後、電車による長距離列車が盛んになるきっかけとなり、ひいては東海道新幹線の出現にまで影響を及ぼした。
[編集] 後期の展開
1960年代以降も国鉄電化の伸張に伴って運用線区を拡大し、本州内の国鉄直流電化区間の大半で主に普通列車として広範に運用された。準急列車(及びその後身の短距離急行)の他、1960年代には長距離急行にも用いられた例があるが、接客設備の不備から短期間の運用に終わっている。
この運用線区の広域化の過程では、さまざまな対策が施されている。身延線投入に際してのトンネル断面制約による低い架線高対策としてのモハ80形のパンタグラフ部低屋根化(800・850番台化)改造、同じくトンネル断面制約のある中央西線(中津川以北)への投入に際して、モハ80形のパンタグラフの低断面トンネル対応形(PS23)への交換、地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサロ85形・サハ87形のクハ85形化改造(運転台取り付け・元がサロ85のものは格下げ)などが生じ、また機関車牽引で非電化区間へ直通するためサービス電源用バッテリーを搭載した電源車を連結するというユニークな試みも見られた。これらの改造・改良や試行錯誤は、いずれも後続の新性能電車群の運用計画に大きな影響を与えた。
1977年までは事故廃車もなく全車健在であったが、老朽化に伴う故障増加への対策や機器整備の合理化の見地から、それ以降113・115系の新製投入などによる代替で、段階的に本格的な廃車が開始された。最後まで運用されたのは飯田線豊橋口に集結した最終型である300番台車で、これも1983年にはすべて営業運転を退き、除籍後全車解体処分されている。
なお、大阪市港区弁天町の交通科学博物館に、代表形式であるモハ80形とクハ86形それぞれのトップナンバーであるモハ80001とクハ86001の2両(広島地区での運用を最後に引退)が、製造時の姿にほぼ復元された上で静態保存されている。80系の保存車はこの2両の他に無く、これらは1986年10月14日に準鉄道記念物に指定されている。湘南顔スタイルの先頭車は残念ながら保存されていない。
[編集] 諸元
設計は国鉄の旅客車開発グループの手になり、国鉄初の本格的な長距離電車として、比較的長時間の乗車と高速運転を配慮した構造となっているのが特徴である。
基本的なメカニズムは、大正・戦前以来引き継がれて来た国鉄電車における伝統的設計の延長上にあるが、大幅な刷新が図られており、あらゆる面から見て「国鉄における吊り掛け駆動方式旧型電車の集大成」と呼ぶべきものである。
従来の電車は短編成が原則で、小回りが利く様に「モーター付車はすべて運転台付き」とされていた。これに対し、客車列車の置き換えを目的とし、長大編成が前提となる80系では「先頭車はモーターなし、運転台のない中間車だけにモーター搭載」とする「中間電動車方式」を採用し、乗り心地やコスト面で改善を図っている。さらに大出力モーターの搭載を活かし、当初は編成内の電動車と付随車の比率を「2:3」とする経済編成を基本とした。
旅客サービス面ではクロスシートとデッキ、そして電気暖房を備え、当時の標準的な客車に見劣りしないハイレベルなアコモデーションを備える車両として完成した。車体については台枠構造の簡略化で軽量化を図った程度で、内装は戦前同様に木製、照明も白熱灯であった。三等車の列車便所についてはデッキ側から出入りする構造として客室との遮断を図っている。
1956年の東北・高崎線用増備車(100(モハ80以外)・200番台(モハ80のみ))では耐寒設計を導入、1957年製の準急用最終増備車(300番台)は10系軽量客車の開発(1955年)で得られた技術を活かしたセミ・モノコック構造の軽量車体となり、内装も完全に全金属化、当初から蛍光灯照明となっている。
通常運転の最高速度は95km/h、設計最高速度は110km/hであったが、1955年には東海道本線での速度試験で125km/hの最高速度を記録している。
[編集] 機器類
台車やモーター、制御装置などについては、戦時設計で戦後も大量に増備されていた通勤電車の63系で1947年以降に試験搭載され、改良を重ねて来た新技術が活かされている。そのシステムは1950年時点の国鉄における最新・最良の内容と言えるものであった。
しかし台車とブレーキを除けば、関西私鉄各社の電車に比較した場合、さほど先進的な設計という訳ではなかった。戦前の1930年代中期までに新京阪鉄道・阪和電気鉄道・参宮急行電鉄・阪神急行電鉄などの有力な関西私鉄は、6両以上の長大編成や最高速度100km/h超の高速性能を企図し、長大編成用自動空気ブレーキ(AMUブレーキ)や、比較的多段の自動加速制御器(一部は発電・回生制動付)、200馬力・230馬力級の大出力主電動機など、戦後の80系をも凌駕する高度な機器を(欧米製品のライセンス生産ないしその改良ながら)大量導入していた。
その意味で比較すれば、80系のメカニズム自体は決して斬新かつ贅沢な設計ではない。戦前の関西私鉄による技術開発の成果をも踏まえ、大量増備を考慮してコストを抑制した経済的かつ堅実な選択が目立つ。
むしろ80系は、「主要幹線の長大編成客車列車を電車に置き換える」という、国鉄ならではのかつてない難事を達成するために、(新旧を問わず)合目的な技術を巧みに組み合わせた結果の、合理性を伴った産物であった、というべきであろう。
[編集] 電装品
主電動機は戦前からの標準型であるMT30(端子電圧675V時定格出力128kW、定格回転数780rpm(全界磁時)・1005rpm(60%界磁時))をベースに、絶縁強化・冷却風洞装備などの改良を施した190馬力(端子電圧750V時定格出力142kW、定格回転数870rpm(全界磁時)・1100rpm(60%界磁時))級モーターのMT40を装架した。当時の国鉄電車用として最強であり、既に1948年から63系で用いられて実績のあったモーターである。端子電圧差を考慮すると実質的な性能はMT30とほぼ同等だが、冷却機構の強化等で信頼性が向上していた。
制御器も、1950年度までは戦前から長らく国鉄標準機種であった電空カム軸式のCS5を暫定的に装備したが、これも1950年以降は、63系での試作開発結果を活かして開発されたCS10電動カム軸式制御装置に変更された。これはCS5に比し作動性が良く、また多段化された上に、直並列切り替え時に主回路上に接触器を一旦挿入し、わたり動作中の電動機の引張力の変化を最小限に抑制する橋絡渡りを導入するなどの改良により、加速時の直並列切り替えに伴うショックを大幅に軽減した。
[編集] 台車
装備する台車は、製造年次によって幾度か変遷が生じている。戦後の国鉄車両の類例に漏れず、当初からコロ軸受け(ローラーベアリング)を採用したことで、長距離運転での車軸発熱の問題は低減されていた。
初期形の電動車には、新開発の高速運転用台車である鋳鋼台車のDT16が装備された。これは1948年頃から63系で試用されて来た扶桑金属(現・住友金属工業)製DT15の発展型で、ペデスタル支持の単バネである点はそれ以前の国鉄電車同様である。もっとも、台車枠が鋳鋼製となって剛性が飛躍的に向上したことで高速運転により適した特性の追求が可能となり、また長距離運転用という事で乗り心地の改善も図られている。
付随車の台車は鋼材組立台車のTR43を装備した。これは「ペンシルバニア型」と呼ばれる鋼材組み立て・ペデスタル支持軸バネ台車である。戦前の20m級国鉄電車の標準型台車であったDT12(TR25)や、一般向け客車用標準台車であったTR23の流れを汲み、機構的にはやや時代遅れの面があった。但しローラーベアリング化などの改良が施されており、長距離運用に不都合はなかった。同種の台車は当時国鉄客車の主力車種であったオハ35などにおいても標準的に採用されており、客車列車の電車化という80系の設計コンセプトからすると、ごく自然な選択ではあった。なお、これは1951年には小改良を施された類似形のTR45に移行した。
1952年以降、枕バネに重ね板バネを使っていた在来台車に代わり、電動車・付随車共枕バネをコイルバネとして揺動特性を改善した新型鋳鋼台車へ移行した。電動車の台車はDT16に似た重厚な形態のDT17、付随車の台車は台車枠の側枠が軸箱上へ跳ね上がった様な軽快なデザインのTR48である。このうちTR48はその完成度の高さから、以後300番台の最後に至るまで付随台車として使用された。
1956年製造の200番台からは、電動車台車について台車枠をプレス成型部材の溶接組み立て式とした、ゲルリッツ(上天秤ウィングばね)軸箱支持方式台車のDT20A形とされた。この台車は国鉄旧型電車用台車の最高傑作ともいうべきものだったが、構成部品が多く製作費が高い上、直後に開発された新性能電車には別途新構想に基づくDT21系台車が開発されたために、少数の製造に留まっている(2006年現在は西武鉄道のE31形電気機関車に飯田線で最後まで運用されていたモハ80形300番台の廃車発生品が流用されて現存している)。
[編集] ブレーキ
ブレーキシステムには、「AERブレーキ」を国鉄の量産車として初めて採用した。戦前から一部の車両を使って実用試験が繰り返されて来た、電磁同期弁付きのAEブレーキを基本として開発されたものである。
従来から国鉄電車で標準的に用いられて来た「A動作弁」による「AMA自動空気ブレーキ」の基本システムを踏襲しつつも、中継弁(Relay valve)を介する事でブレーキ力を増幅し、また各車のA動作弁に電磁同期弁を付加して反応速度を高めた。この結果、日本の電車としては未曾有の長大編成である16両編成運転が可能となった。80系実現のキーの一つとなった技術と言える。
ブレーキシリンダーを車体床下に装架し、ロッドで台車に制動力を伝える点では、在来型電車と変わらなかった。しかし、在来型電車が1両当たり1シリンダー装備で、2基の台車を連動させて制動していたのに対し、80系では中継弁使用の恩恵で台車1台毎に独立した専用のブレーキシリンダーを配置(つまり1両あたり2シリンダー)し、これによって作動性と保安性が向上している。
[編集] 車体塗色
80系の独特なオレンジと緑の2色塗装は「湘南カラー」や「湘南色」と呼ばれ、茶色1色塗装が当然だった当時の鉄道界に新鮮な驚きを与えた。
この塗色は「静岡県地方特産のミカンとお茶にちなんだもの」と俗に言われ、国鉄も後にはその様にPRしている。しかし実際には、とある海外の鉄道雑誌に掲載されていたアメリカのグレート・ノーザン鉄道の「エンパイア・ビルダー・カラー」と呼ばれる車両塗装(※)にヒントを得て、警戒色も兼ねてこれに近い色合いを採用したことを、開発に携わった国鉄技術者が証言している。
- (※)オマハオレンジとオリーブグリーンと呼ばれる2色を基本とする塗り分けであるが、境界部に黄色の細帯が入れられるなど、いわゆる湘南色と比べると格段に複雑な塗装であった。
その彩度や明度は塗料の退色などの耐久性の問題もあり、時代により、あるいは担当工場により、幾度か変更されてきた。
いずれにせよこの塗色は、以後国鉄の直流近郊形・急行形電車の標準塗色の一つとなり、オレンジ色をコーポレートカラーとして採用している東海旅客鉄道(JR東海)を筆頭に、現在の本州JR各社にまで引き継がれている。
詳しくは湘南電車#車両の色を参照されたい。
[編集] 塗り分け調整
全金属車体となった300番台車と、それ以前の半鋼製車体の80系各車とでは、車体構造の相違から基本塗り分けラインが異なり、両者の混結時には美観の点で難があった。そこで、一部の国鉄工場では担当電車区に在籍する80系について、在来車の塗り分けを300番台車のものに揃える例や、在来車と300番台の折衷ラインに統合する例など、その塗装管理について試行錯誤を繰り返した。
しかしこの塗り分け調整には、結局統一された決定版が生じなかった。その後80系の広域転配で、見解の異なる工場の担当車同士が併結される例も見られ、この場合は編成全体のラインの乱れが却って悪化した。
[編集] 湘南色以外の80系
東海道線東京口に続き、東海道・山陽線関西地区向けとして80系が投入された。これらは、戦前以来の急行電車(のちの快速電車)運用に充当すべく、戦前形車モハ43系の横須賀線転用と引き替えに新製配置されたものであった。
この「関西急電用」80系は、その初期には戦前のモハ52系流線型電車以来の関西急電の伝統であった「急電色」に塗装されていた。窓周りがベージュ、幕板部および腰板部が焦げ茶色(国鉄の制式名では葡萄色と称される)という「急電色」の80系は、派手な「湘南色」車と異なり、独特の渋味のあるたたずまいで異彩を放っていた。
しかし、東海道本線全線電化に伴う準急「比叡」用新製車の配置をきっかけとして、80系の塗装は湘南色に統一する事が決定したため、この伝統ある塗色は一旦消滅することとなった。この塗色の系譜を引き継ぐ車両が関西に再び出現するのは、(急電の後身ともいうべき)「新快速」専用車として、117系電車が国鉄末期の1979年に開発された時である。
[編集] 車両デザイン
車両デザインとして特筆すべきは先頭車(クハ86)のデザインである。1949年末から製造された初期型(クハ86001~020)こそ、運転台正面が旧来の電車で固定化したデザインを踏襲し、非貫通の3枚窓であったが、1950年下期以降製造のモデルからは正面2枚窓に変更した。
最初にこのデザインを試みたクハ86021・022は、3枚窓車用の台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない曲面形状であり、やや締まりに欠けたが、続くクハ86023以降は台枠形状を変更して「鼻筋」が出現、ここに80系の象徴となる2枚窓デザインが完成した。スピード感と近代性があり、当時としては極めて斬新な形状で「湘南型」と呼ばれた。
このスタイルは乗客と鉄道関係者の双方から好評を得て、1950年代を通じ、国鉄・私鉄を問わず日本の鉄道界に同種のデザインが大流行する事になった。これは、それまでの電車は貫通扉があったため3枚窓の顔のものがほとんどであったが、貫通扉を廃して2枚窓にすると運転士にとっては視界が良くなり、またデザイン的にも斬新な印象を与えられたからだとされる。
基本は、前照灯を中央上部に1灯埋め込み式に設置し、上半部を後傾させて正面中央に折線を設けた「鼻筋の通った」デザインであるが、アレンジメントも多く、前面窓を1段くぼませたり、前照灯を窓下に降ろして2灯化、「鼻筋」を廃して丸みのあるデザインにしてみる、等々無数の亜流を産んだ。さらには、新製車ばかりでなく旧型車を更新改造の際に「湘南型」に改装する例も見られた。その後、それらの鉄道車両を、鉄道ファンは「湘南タイプ」又は「湘南スタイル」・「湘南顔」と総称するようになった。
1950年代当時、日本全国の鉄道における新車への「湘南顔」の猖獗ぶりは凄まじいものがあった。一般の電車は無論のこと、路面電車、電気機関車、気動車やディーゼル機関車にまで急速に伝染し、森林鉄道向け小型ディーゼル機関車(酒井工作所製C4・F4形など)にすら鼻筋の通った2枚窓の湘南顔を見る事ができたのであるから、その感染力は尋常でなかった。
[編集] 実例
関東私鉄をはじめとする東日本地域に於いては、京浜急行電鉄・東武鉄道・京王帝都電鉄(→京王電鉄)・東京急行電鉄・小田急電鉄・西武鉄道・相模鉄道など大手・準大手はもちろんの事、中小私鉄である江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)、路面電車である東京都電・横浜市電、果ては軽便鉄道や北海道の簡易軌道路線にまで同種の2枚窓先頭車を持った車両が登場した。ただ、地下鉄では法令で貫通扉を設ける事が義務付けられているため、湘南顔の電車は登場しなかった。
中部以西では名古屋鉄道・西日本鉄道なども採用し、関西地方の私鉄や静岡鉄道駿遠線、三重交通、それに下津井電鉄など、一部の軽便鉄道にまで影響を与えた。しかし関西では、元々多客時には短編成の電車に随時増結して輸送力を確保する、弾力的な車両運用を好む会社が多く、湘南顔前面では車両間の通り抜けができないことから、運用上は厭われることが多かった。結果、京阪神急行電鉄(→阪急電鉄)では同種の2枚窓を持った車両は製造されず、その他の会社でも各社1~3形式程度しか湘南顔に類似するタイプの車両は製造されなかった。但し、南海電気鉄道のみは湘南顔を持った車両を南海・高野の両線で長く主力車として重用した。
後年、関東でも貫通扉がない事が運用上で様々な支障をもたらす事が表面化し、結果、昭和30年代中頃までに湘南顔の流行は終了した。既存の湘南顔車両についても、まず東武鉄道が湘南顔車について貫通扉設置形態に改造し、その他の会社も同様に、湘南型前面を持った車両を次第に貫通前面化改造した。
しかしそれでも、京王帝都電鉄では固定編成で運用される井の頭線向け(京王線用は1963年の5000系から湘南顔廃止)として1988年(昭和63年)まで(さらに事故車の代替用では1991年(平成3年)まで)、西武鉄道では1987年(昭和62年)まで、それぞれ湘南顔の電車を新製し続けた。
[編集] 国鉄及び大手私鉄の湘南タイプの代表形式
- 国鉄70系電車
- 国鉄EF58形電気機関車
- 東武キハ2000形気動車
- 京王3000系電車
- 西武501系電車
- 京急500形電車
- 名鉄5000系電車
- 近鉄800系電車
- 南海21000系電車
- 南海11001系電車(11009以降)
- 西鉄1000形電車 (鉄道)
- など
[編集] 地方私鉄の湘南タイプの形式
- 留萌鉄道キハ1000・1100形気動車
- 三井芦別鉄道キハ100形気動車
- 夕張鉄道キハ250・300形気動車
- 定山渓鉄道キハ7000・7500形気動車
- 茨城交通ケハ600形気動車
- 富士急行3100形電車
- 長野電鉄2000系電車
- 静岡鉄道キハD17形気動車
- 遠州鉄道モハ30形電車
- 加越能鉄道キハ120形気動車
- 三重交通4400形電車
- 奈良電気鉄道デハボ1300形電車
- 下津井電鉄モハ103・クハ24形電車
- 高松琴平電気鉄道1010形電車
- 熊延鉄道ヂハ200形気動車
- 島原鉄道キハ4500形気動車
- など。上記の通り、湘南顔は北海道から四国、九州まで日本全国の広範囲の私鉄に分布していた。
[編集] 80系の長距離急行
80系を用いた最長距離運行の列車は、東京駅~姫路駅間の臨時夜行急行列車「はりま」である。1960年6月から1961年7月にかけての運行で、車両の不足上から80系が用いられた。
臨時列車に定期列車より格落ちする車両が入るのは普通であったが、定期の長距離急行に80系が投入された例では、1962年6月から電車化された上野駅~新潟駅間の上越線急行「佐渡」・「弥彦」がある。二等車(現・普通車)に洗面所がなく、さらに吊り革が車端部に下がっていてロングシートが一部に存在するなどの普通列車仕様で、おおよそ急行列車には相応しからぬ設備であった。但し、電車ならではの速達性は好評で、旧型客車使用の並走急行より利用率は高かったという。
なお「佐渡」と「弥彦」に投入された80系は、1963年に165系へ置き換えられている。
[編集] その他
2006年3月10日、東海道本線東京口から「湘南電車」の3代目車両である113系が撤退するのにあわせ、藤沢駅の3・4番線ホームに80系先頭車クハ86を模した形のKIOSKが登場した。
また、石神井公園駅近くの病院にはクハ86の300番台の実物大レプリカがある。実際に80系を製造していた会社に依頼して作られた。内部は診察室や事務室になっている。地元では「電車の病院」として親しまれている。この病院の理事長は、昔国鉄や西武鉄道の嘱託医で熱心な鉄道ファンである。車番は実在の車両の追い番の「クハ86374」になっている。構内には西武351系電車もカットボディも設置している。
[編集] 参考文献
- 沢柳健一『旧型国電50年Ⅰ・Ⅱ』(JTBパブリッシング、2002年) ISBN 4533043763 (Ⅰ) ・ ISBN 4533047173 (Ⅱ)
- 交友社『鉄道ファン』1999年5月号 No.457 特集・思い出の80系湘南電車
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2004年3月号 No.743 特集・80系湘南形電車
- イカロス出版『季刊 j train』Autumn 2005 Vol.19 特集・動力分散化の立役者 湘南電車80系
日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)の旧形電車 |
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車体長17m級の鋼製標準形電車 |
30系・31系・32系(電動車)・33系・50系・62系 |
車体長20m級の鋼製標準形電車 |
32系(制御車・付随車)・40系・42系・51系・52系・63系・70系・72系・80系 |
私鉄買収車 |
広浜・信濃・富士身延・宇部・富山地鉄(富岩)・鶴見臨港 豊川・鳳来寺・三信・伊那・南武・青梅・南海(阪和)・宮城 |
事業用車/試験車 |
クモヤ93形・493系 |