相模 (歌人)
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相模(さがみ)は生没年不明、長徳四年頃(998?)~康平四年(1061)以降か。十一世紀初頭の女流歌人で、中古三十六歌仙の一人。百人一首に収められた、「恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなん名こそ惜しけれ」 は恋歌として名高い。
実父は不詳で、能登守慶滋保章の娘を母として生まれる。継父であろうという摂津源氏・但馬守頼光(948-1021年)の養女。
初名は乙侍従(おとじじゅう)。寛仁四年(1020)より以前に相模守大江公資に娶られ、相模の女房名で呼ばれるようになる。夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活が破綻し、万寿元年(1024)帰京してまもなく、公資と離別した。その後、四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼(995-1045年)からたびたびの求愛を受けた。
しばらくして一条天皇の第一皇女・一品宮脩子内親王(996-1049)に出仕。永承四年(1049)に主君・脩子内親王が薨去した後は、さらに後朱雀天皇の皇女祐子内親王(1038-1105年.脩子内親王の弟の孫)に仕えた。
相模は長元八年(1035)の「賀陽院水閣歌合」(関白左大臣藤原頼通の主催)に出詠したのをはじめ、数々の歌合に名をつらね、後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。相模が出詠した歌合の一部を挙げるだけでも、長暦二年(1038)の「一品宮歌合」・「源大納言師房家歌合」、長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」、永承三年(1048)年の「六条斎院(禖子内親王)歌合」、永承四年・同六年の内裏歌合、永承五年の「前麗景殿女御延子歌絵合」「祐子内親王歌合」、天喜四年(1056)の「皇后宮寛子春秋歌合」などがある。いずれも貴顕の後援で主催された歌合で、彼女の名声が高かった証拠である。彼女は和歌六人党(藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・同頼家・同兼長)の歌道の指導的立場にあったばかりでなく、能因法師・和泉式部・源経信などとの交流もそれぞれの家集から伺える。
代々の勅撰集に百首ほど入集。白河朝に編まれた『後拾遺和歌集』では和泉式部についで第二位の入集歌数を誇る。家集『相模集』(『思女集』などの異名を持つ)も伝本が現存する。