加賀型戦艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加賀型戦艦(かががたせんかん)は日本海軍が八八艦隊計画で計画した戦艦。長門型の拡大改良型である。同型艦2隻ともワシントン海軍軍縮条約により建造中止となったが、加賀は航空母艦に改装された。
目次 |
[編集] 概要
本型は八八艦隊計画の長門型に次ぐ3番艦、4番艦として計画された、高速戦艦とも呼ぶべき戦艦である。 「長門」型では完全に取り入れる事が出来無かったジュットランド沖海戦の戦訓を長門型以上に徹底して取り入れるため、長門型で採用された集中防御方式をさらに強化している。 「長門」型では舷側の装甲帯の上部装甲はより薄くなっており、またその装甲は舷側に垂直に取り付けられていたが、「加賀」型では舷側の装甲帯の装甲厚は上部~下部ともに完全に同一になっている。また、一部の装甲を傾斜式にするなどして更なる防御力の強化を図っている。この時点で、日本海軍の防御設計は従来の英国式のものから完全に脱却した。 さらに、日本海軍の戦艦で初めて煙路防御を施している。遠距離砲戦で重要となる水平防御の為に甲板に張られた装甲は4インチもあり、世界最強の防御を持っていた。ちなみに当時のアメリカの最新鋭戦艦の水平防御装甲厚は3・5インチである。 攻撃力の面では、「長門」型が40センチ砲4基8門であったのに対して、1基砲塔数が増加して5基10門となり、世界最大の主砲を10門搭載する重武装となっている。 速力の面では、「長門」型より新式で91000馬力を発揮する新式機関を搭載した。これにより長門型より船体規模、排水量が大幅に増加したにも関わらず、長門型の21基より少ない12基で26・5ノットの高速を維持できた。缶数が減少した事により、煙突は長門型の2本から一本になった。
[編集] 艦歴
[編集] 加賀
1920年7月19日神戸川崎造船所で起工。1921年11月17日進水。ワシントン海軍軍縮条約により廃艦となるが、同条約の為航空母艦に改造されることとなった天城が関東大震災で損傷、廃棄されることとなったので、急遽代艦として航空母艦に改造されることになった。以降は加賀を参照。
[編集] 土佐
1920年2月16日三菱長崎造船所で起工。1921年12月18日進水。ワシントン海軍軍縮条約により廃艦となり、1922年7月未成のまま海軍に引き渡された。その後は標的として使用され1925年2月9日豊後水道で沈められた。 後に砲塔のみが、壱岐と対馬の各地に極秘の内に砲台として設置された。 (対馬海峡の西と東の両水道を通る敵船を攻撃する目的で設置。しかし一発も撃つことなく終戦。戦後撤去され、現在壱岐の黒崎砲台跡が隣の猿岩共に観光名所となっている。)
[編集] 計画要目
- 常備排水量 39900トン
- 全長 234.09メートル
- 幅 32.3メートル
- 機関出力 91000馬力
- 速力 26.5ノット
- 兵装 41センチ45口径連装砲5基、14センチ50口径単装砲20基、7,6センチ単装高角砲4基、61センチ魚雷発射管8門
[編集] 関連項目
大日本帝国海軍の戦艦 |
創設から日露戦争終結まで |
富士型:富士 | 八島 敷島型:敷島 | 朝日 | 初瀬 | 三笠 |
日露戦争後からド級戦艦まで |
香取型:香取 | 鹿島 薩摩型:薩摩 | 安芸 筑波型:筑波 | 生駒 鞍馬型:鞍馬 | 伊吹 |
ド級戦艦建造から第一次世界大戦まで |
河内型:河内 | 摂津 金剛型:金剛 | 比叡 | 榛名 | 霧島 扶桑型:扶桑 | 山城 伊勢型:伊勢 | 日向 |
八八艦隊計画 |
長門型:長門 | 陸奥 加賀型:加賀 | 土佐 天城型:天城 | 赤城 | 愛宕 | 高雄 紀伊型戦艦:紀伊 | 尾張 | (駿河) | (近江) 十三号型巡洋戦艦:十三号艦 | 十四号艦 | 十五号艦 | 十六号艦 |
太平洋戦争 |
大和型:大和 | 武蔵 | 信濃 | |
日本が保有した他国の戦艦(戦利艦) |
日清戦争戦利艦:鎮遠 日露戦争戦利艦:石見 | 肥前 | 丹後 | 壱岐 | 周防 | 相模 第一次世界大戦戦利艦:トゥルグット・レイス | ナッソー | オルデンブルク |
この「加賀型戦艦」は、軍艦に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。 |