金剛型戦艦
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金剛型戦艦 | |
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艦級概観 | |
艦種 | 戦艦 |
艦名 | 山の名 |
前級 | 河内型戦艦 |
次級 | 扶桑型戦艦 |
同型艦: | 金剛、比叡、榛名、霧島 |
竣工: | 1913年8月16日(金剛) 1914年8月4日(比叡) 1915年4月19日(榛名) 1915年4月19日(霧島) |
喪失: | 1944年11月21日(金剛) 1942年11月13日(比叡) 1945年7月28日(榛名) 1942年11月15日(霧島) |
性能諸元 | |
排水量: | 26,330 トン(竣工時) 32,000トン(改装後) |
全長: | 214.6m(竣工時) 222m(改装後) |
全幅: | 28.04m(竣工時) 31.02m(改装後) |
主機: | 蒸気タービン2基4軸 64,000馬力(竣工時) 蒸気タービン4基4軸136,000馬力(改装後) |
最大速力: | 27.5ノット(竣工時) 30ノット(改装後) |
航続距離: | 8,000浬(14ノット時)(竣工時) 10,000浬(18ノット時)(改装後) |
乗員: | 約1,200名(竣工時) 約1,300名(改装後) |
兵装: | 35.6cm45口径連装砲4基 15.2cm50口径単装砲16基 53.3cm魚雷発射管8基 (竣工時) 12.7cm連装高角砲6基 機銃多数 カタパルト1基 水上偵察機3機 (改装後) |
装甲: | 水線203mm 甲板70mm 弾火薬庫甲板 64mm~102mm (改装後) |
備考: | 各艦個別に若干の差異があるため、詳細は各艦の項目参照。 |
金剛型戦艦(こんごうがたせんかん)は、大日本帝国海軍の戦艦の艦級。日本初の超弩級巡洋戦艦であり、また英国によって建造された最後の日本主力艦である。太平洋戦争時には最古参艦でありながらも30ノットの快速を利して機動部隊護衛などに活躍、戦記などでは、「高速戦艦」と呼ばれることも多い。
目次 |
[編集] 命名の由来
この頃の命名慣例によれば戦艦には旧国名が名付けられているが、本級はまず装甲巡洋艦(一等巡洋艦)として計画されたことから、同型艦全て山岳名が名付けられている。
[編集] 建造の経緯
日露戦争以降の日本海軍は、それまで英国にのみ頼ってきた主力艦を自国で建造すべく研鑚を重ねていた。ところが1906年にイギリス海軍により画期的戦艦ドレッドノート、さらに1908年にドレッドノート同様の戦闘力を持つ「巡洋戦艦(battle cruiser)」インヴィンシブルが発表されると、従来の主力艦は軒並み”時代遅れ”となってしまった。これは装甲巡洋艦筑波型・伊吹型・戦艦薩摩型・河内型といった国産新鋭装甲巡洋艦・戦艦についても同様であった。これにより日本独自の技術だけでは超弩級戦艦・巡洋戦艦時代の建艦競争に勝てないことが明らかとなった。
そこで日本海軍としては英国の進んだ建艦技術を学ぶべく主力艦建造を英国に依頼、その設計を元に日本国内でも建造を行うこととし、当時「伊号装甲巡洋艦」として計画中だった艦の建造を英国ヴィッカース(Vickers)社に発注することとなった。これが1番艦「金剛」で、同型艦はそれぞれ2番艦「比叡」を横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」を神戸川崎造船所、4番艦「霧島」を三菱長崎造船所で建造と、初めて民間に主力艦建造が為され、同型主力艦4隻を同時に建造出来る態勢を整えた。「榛名」と「霧島」は、初の民間による戦艦建造と言うこともあり、両社の対抗意識はすさまじく、起工は榛名が、進水は霧島がそれぞれ先を争うように進行し、竣工が同じ日となっている。榛名の進水が遅れたことにより、川崎造船造機部長が自殺する事態になったという。
設計はヴィッカース社の軍艦設計部長ジョージ・E・サーストン卿により、当時英海軍最新鋭にして世界最大最強の巡洋戦艦であったライオン級巡洋戦艦を元に行われた。主砲は当初30.4cm(12in)50口径砲を予定していたが、ライオン級では34.3cm(13.5in)砲を搭載すること、及び35.6cm(14in)45口径砲なら30.4cm50口径と大きさにほとんど差が無いことなどから、35.6cm砲連装砲塔を4基搭載することとした。また副砲もライオン級が10.2cm(4in)砲16門に対して金剛では15.2cm(6in)砲16門を搭載、しかもやや優速を発揮し、手本となったライオン級を、殊に攻撃面で凌駕していた。さらに、35.6cm砲は当時世界最大の巨砲であり、金剛の竣工は同砲を搭載する米海軍戦艦ニューヨークよりも早かったため、誕生時にはまさに世界最強の巡洋戦艦であった。
なお、「金剛」計画時、海軍は議会により戦艦1隻・装甲巡洋艦4隻建造を認可されていたが、日露戦争以来、英海軍のフィッシャー提督の提唱と同様、日本海軍でも「速度こそ最大の防御」とする考えが強く、結果として装甲巡洋艦(巡洋戦艦)4隻の建造に踏み切った、と言われている。
[編集] 艦型・兵装配置
本級は従来日本戦艦に多用された垂直型艦首ではなく、より凌波性に優れたクリッパー型艦首を持っている。前甲板に1・2番主砲塔を背負式に配置、艦体中央に艦橋などの上部構造物、後甲板に3・4番主砲塔をやはり背負式に配置している。また、左右両舷にはそれぞれ砲廓式の副砲が一列8基ずつ配置されている。船体は上から見ると細長く流麗なデザインとなっている。
金剛設計の元となったライオン級では、3番主砲塔と4番主砲塔との間に煙突などの構造物があり、後方へ向けての射撃力は金剛に著しく劣っていた。それで英海軍では、建造中であったライオン級4番艦「タイガー」の設計を見直し、金剛同様の主砲配置に変更する、という一幕もあった。
金剛建造当時、海戦は距離8,000m前後で行われると想定されていた。このため、戦闘中に砲撃よりも強力な雷撃を併用することが考えられており、本級も53.3cm魚雷発射管を8門装備している。これはそれぞれ1番主砲塔前方・艦橋・4番主砲塔・艦尾の喫水線下に側面向きに固定装備されており、このうち最前方・最後方の2対については艦幅が発射管の長さ2本分に満たないためか左右対称ではなく前後に少しズレた形で配置されていた。但しこれら魚雷が実戦で使われた記録は無く、またいつごろ撤去されたのか、あるいは末期まで搭載されたままだったのか、明快な資料は見当たらない。
[編集] 第一次世界大戦と軍縮時代
金剛竣工間も無く、第一次世界大戦が勃発した。イギリスと日英同盟を結んでいた大日本帝国も連合国軍として参戦することとなり、金剛ら新鋭の巡洋戦艦群にも出撃命令が下された。当時金剛級4隻から成る第三戦隊は世界最強とうたわれており、北海・地中海方面のドイツ海軍に手を焼いていたイギリス海軍からその一時貸与を申し入れられることもあった。さすがにこれは断ったものの、太平洋や中国方面のドイツ東洋艦隊の動きを封じるべく活動を行った。
第一次世界大戦中の1916年5月、海軍史上有名なジュットランド沖海戦が起こり、これが巡洋戦艦たる金剛級のあり方を大きく変えることとなった。海戦自体は史上最大規模の砲撃戦であるにも関わらず主力戦艦の沈没は皆無である一方、巡洋戦艦が両軍合わせて4隻も撃沈されるというものであった。特に金剛級の手本となったライオン級の3番艦「クイーン・メリー」がドイツ巡洋戦艦「デアフリンガー」からの唯2発の直撃弾によって轟沈させられたことは衝撃的で、実は金剛級の攻撃力・速力の優位はライオン級よりも装甲を若干薄くすることによって得ていた(例の「速度こそ最大の防御」という考え方による)ものであったため、遠距離砲撃戦によって大きな角度で落下する敵砲弾に対する防御力の脆さは、より深刻なものと受け止められた。
一方、終戦後戦勝国の間で激化し始めた建艦競争を沈静化すべく1922年にワシントン海軍軍縮条約が締結された結果、本級の後継上位艦種として期待されていた天城型巡洋戦艦が建造出来なくなったため、金剛級を改装して「ポスト・ジュットランド」型戦艦とすることとした。まず1924年、先に事故を起こして現役を離れていた榛名を皮切りに改装に入り、霧島・金剛・比叡と続いて改装を行っていたが、1930年のロンドン海軍軍縮条約により金剛型1隻を削減することとなったため、改装の進行度が最も遅れていた比叡をこれに充てることとした。これにより金剛・榛名・霧島は排水量29,330トン(約3,000トン増加)となり従来より耐弾性を強化したが、その代償として速度が25ノットにまで落ち込み、1931年6月に艦種類別を「戦艦」へと変更された(このとき「巡洋戦艦」という類別は廃止された)。いっぽう比叡は、4番主砲塔と副砲の全て、及び一部装甲と缶を撤去され19500トン、18ノットの練習戦艦になった。比叡はこうして戦力外にこそなったものの、重量と任務的には余裕が出来たため、4番砲塔部に見学用の台を設け昭和天皇の御召艦を何度も務めるなど軍艦としては名誉な役回りを演じることとなる。
ロンドン海軍軍縮条約の満了期限が迫ると、各国とも条約の枠組みに囚われない艦を建造、または既存艦の改造に着手するようになり、金剛級もまたもや榛名を皮切りに霧島、金剛と第二次近代化改装に入り、条約脱退を宣言した頃にはこれら3艦の改装もだいぶ進んだ状態にあった。3艦の改装完了後、長らく練習戦艦として過ごしていた比叡もまた、それら3艦が二度に分けて行った改装をまとめて施し、戦艦として復帰することとなる。なおこの際、比叡は後の大和型戦艦に導入される新技術のテスト艦となり、他の姉妹艦よりも大和に酷似した艦橋を持つことになったことが知られているが、他にも主砲旋回部に旋回速度の速い水圧機関を導入するなど、他3艦とはかなり違った艦となった。
かくして、改装後(各艦細かな違いはあるものの)32,000トン、30ノットという快速を誇る高速戦艦として、金剛型は生まれ変わったのである。
[編集] 金剛型の用兵思想の変遷
戦前の大日本帝国海軍の戦略思想は、飽くまで戦艦部隊同士による砲撃戦により雌雄を決する、いわゆる「艦隊決戦」思想であった。この場合の金剛型の任務は、まず決戦前に戦場に展開、味方の水雷戦隊を妨害するために展開する敵巡洋艦隊をその砲火力で圧倒し、さらに水雷戦隊や巡洋艦隊を掩護するために主隊とは別行動を取る敵戦艦を砲撃して挑発し、その速度をもって味方主隊の射程内におびき寄せる、というものであった。
ところがいざ太平洋戦争が始まると、戦いは航空戦主体のものとなった。しかもマレー沖海戦で航空攻撃の前に戦艦が無力であることが明らかとなると、従来決戦の主役とされた長門型や扶桑型などは活躍の場を見出すことが出来なくなった。しかしながら金剛型だけは航空母艦と行動を共に出来る速力を発揮できたため、その護衛任務を与えられることとなる。この場合は、まずその大きな艦体で敵攻撃機の注意を空母からそらし、なおかつその搭載された多数の対空兵器によって敵航空部隊を駆逐することが期待されていた。
戦争が進みガダルカナルでの苦戦が続くようになると、敵航空基地を砲撃粉砕することが陸軍により求められた。当初は巡洋艦・駆逐艦を主体とした作戦を実行していた海軍だったが、敵艦隊との遭遇戦が起きたり、砲撃に成功しても大きなダメージを与えられず早期に復旧されてしまうため、戦艦の大口径砲による撃砕が考えられた。この際、敵航空機の広い索敵範囲の外から侵入して砲撃、さらに敵攻撃圏外への撤退を一晩で行える速度が求められ、高速の金剛型に白羽の矢が立ったのである。このヘンダーソン基地艦砲射撃は一度は成功に終わるものの、陸軍側の不手際により再度攻撃を敢行することとなり、その結果、第三次ソロモン海戦が勃発、比叡・霧島が戦没した。
[編集] 関係年表
- 1911年1月17日 - 英ヴィッカース社にて「金剛」(伊号装甲巡洋艦)起工
- 1911年11月4日 - 横須賀海軍工廠にて「比叡」(卯号装甲巡洋艦)起工
- 1912年3月16日 - 神戸川崎造船所にて「榛名」(第2号装甲巡洋艦)起工
- 1912年3月17日 - 三菱長崎造船所にて「霧島」(第3号装甲巡洋艦)起工
- 1912年5月18日 - 「金剛」進水
- 1912年11月21日 - 「比叡」進水
- 1913年8月16日 - 軍艦「金剛」竣工、日本へ回航される
- 1913年11月15日 - 「金剛」横須賀到着、横須賀鎮守府入籍
- 1913年12月1日 - 「霧島」進水
- 1913年12月14日 - 「榛名」進水
- 1914年7月28日 - 第一次世界大戦勃発、8月には日本も参戦
- 1914年8月4日 - 軍艦「比叡」竣工、佐世保鎮守府入籍
- 1914年8月23日 - 「金剛」、太平洋航路警備のためミッドウェー方面哨戒出撃
- 1914年9月14日 - 「比叡」、東シナ海方面にてドイツ東洋艦隊に対し警備行動
- 1915年4月19日 - 軍艦「榛名」竣工、横須賀鎮守府入籍
- 1915年4月19日 - 軍艦「霧島」竣工、佐世保鎮守府入籍
- 1916年4月9日 - 「榛名」、青島方面警備行動のため出撃
- 1916年4月9日 - 「霧島」、中国方面警備行動のため出撃
- 1916年5月31日 - ジュットランド沖海戦、英独の新鋭巡洋戦艦撃沈される
- 1920年9月20日 - 「榛名」、主砲暴発事故
- 1921年11月11日 - ワシントン海軍軍縮条約により天城型巡洋戦艦廃艦決定
- 1924年3月?日 - 「榛名」第一次近代化改装着手
- 1927年5月12日 - 「霧島」第一次近代化改装着手
- 1928年7月28日 - 「榛名」、第一次近代化改装完了
- 1928年10月20日 - 「金剛」第一次近代化改装着手
- 1929年10月15日 - 「比叡」第一次近代化改装着手
- 1930年4月16日 - 「霧島」、第一次近代化改装完了
- 1930年4月24日 - ロンドン海軍軍縮条約により「比叡」工事中断
- 1931年6月1日 - 本級4隻全て艦種類別を「戦艦」に変更、「巡洋戦艦」の類別廃止
- 1931年9月20日 - 「金剛」第一次近代化改装完了
- 1933年1月1日 - 「比叡」、類別を「練習戦艦」に変更、武装を一部撤去
- 1933年9月?日 - 「榛名」、第二次近代化改装着手
- 1934年6月1日 - 「霧島」、第二次近代化改装着手
- 1934年9月30日 - 「榛名」、第二次近代化改装完了
- 1935年6月1日 - 「金剛」、第二次近代化改装着手
- 1936年1月15日 - 日本、ロンドン海軍軍縮条約脱退
- 1936年6月8日 - 「霧島」、第二次近代化改装完了
- 1937年1月8日 - 「金剛」、第二次近代化改装完了
- 1937年4月1日 - 「比叡」、近代化改装着手
- 1940年1月31日 - 「比叡」、近代化改装完了、類別を「戦艦」に変更
- 1941年11月26日 - 「比叡」「霧島」を含む機動部隊、単冠湾出撃
- 1941年12月4日 - 「金剛」「榛名」、馬来上陸支援のため馬公出撃
- 1941年12月8日 - 真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発
- 1941年12月10日 - マレー沖海戦、「金剛」「榛名」接敵出来ず
- 1941年12月20日 - 「金剛」「榛名」、比島上陸作戦のためカムラン湾出撃
- 1942年1月6日 - 「金剛」「榛名」、蘭印作戦支援のため馬公出撃
- 1942年1月17日 - 「比叡」「霧島」、ラバウル方面攻略のためトラック出撃
- 1942年2月25日 - 4隻揃って機動部隊編入、インド洋作戦
- 1942年3月1日 - ジャワ近海にて米駆逐艦「エドソール」を砲撃により撃沈
- 1942年3月7日 - クリスマス島砲撃
- 1942年6月5日 - ミッドウェー海戦本級4隻とも出撃
- 1942年8月24日 - 「比叡」「霧島」、第二次ソロモン海戦に参加
- 1942年10月13日 - 「金剛」「榛名」、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃
- 1942年10月26日 - 南太平洋海戦、本級4隻参加
- 1942年11月13日 - 「比叡」、第三次ソロモン海戦にて被弾舵機故障のため自沈処分
- 1942年11月15日 - 「霧島」、第三次ソロモン海戦にて米戦艦2隻による砲撃で撃沈される
- 1943年1月31日 - 「金剛」「榛名」、ガダルカナル撤収を支援
- 1944年6月20日 - マリアナ沖海戦、「金剛」「榛名」は他の戦艦と共に前衛部隊
- 1944年10月25日 - レイテ沖海戦、「金剛」「榛名」サマール沖で敵空母群砲撃
- 1944年11月21日 - 「金剛」、台湾海峡にて米潜「シーライオン」により撃沈される
- 1945年7月28日 - 「榛名」、江田島小用沖にて米軍機により大破着底
- 1946年7月4日 - 「榛名」の浮揚解体完了
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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