アメリカ横断ウルトラクイズ
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『アメリカ横断ウルトラクイズ』(アメリカおうだんウルトラクイズ)とは、日本テレビで放送された視聴者参加型のクイズ番組。
1977年、「日本テレビ開局25周年記念番組」として第1回を放送。以来、年に1回ずつ制作・放送され、1992年の第16回を最後に一度放送終了となったが、1998年に「日本テレビ開局45年記念番組」として、1回限りの復活を果たした(なお、この時は"第17回"ではなく、"今世紀最後"と銘打たれた。ただし、司会の福留功男の著書『ウルトラクイズ伝説』では、「今世紀最後」の写真や問題に「17回」と表記されている)。
毎回の番組名は『史上最大! 第○回 アメリカ横断ウルトラクイズ』。英語表記は『TRANS AMERICA ULTRA QUIZ』。タイトルロゴには『TRANS AM ULTRA QUIZ』と表記された。
[編集] 概要
[編集] かつてない大規模クイズ番組
「知力、体力、時の運」を合言葉に、広大なアメリカ大陸を横断しながら1000問以上に及ぶクイズに挑戦。決勝地ニューヨーク(1985年・第9回の決勝地はフランス・パリ、1998年・"今世紀最後"の決勝地は西インド諸島であった)を目指すというもの。途中、各地(チェックポイント)にて風土や名所等に合ったクイズを行い、勝ち抜ければ次のチェックポイントに進めるが、敗れると現地で厳しい罰ゲームを受けた後、日本へ強制送還させられるというルール。他のクイズ番組とは異なり、18歳以上(高校生不可)でパスポートを所持していれば(他にも細かい規定はあるが)、予選会・面接会なしで誰でも番組に参加可能である。挑戦者は勝ち続けている間は旅費と宿泊費と食費(挑戦者の数が10名前後からアルコールも)を負担してもらえ、失格後も成田空港までの旅費と食事(挑戦者のものとは多少ランクが下がるが)を負担してもらえた。
数々のチェックポイントを勝ち抜き、決勝地に辿り着けたのは各回たったの2人(1987年の第11回は3人)。ここで最後のクイズを行い、優勝者(クイズ王)を決定した。当番組は数あるクイズ番組の中でも一目置かれた特殊な位置づけをされており、単純に知識量と早押し技術を比較するクイズ番組とは一線を画していた。そのため、昨今様々なクイズ番組の優勝者を"クイズ王"と呼ぶことがあるが、開催規模・参加人数・放送時間の長さと質の高さ・視聴率等のいずれを以てしても当番組の注目度は他のそれを明らかに圧倒していた。一年に一度しか開催されないこと、世界各地を転戦しながら行われた多彩なクイズ形式、地球規模のスケールの大きさ、それらを総合すると「ウルトラクイズのクイズ王こそ真のクイズ王」と認識されたことに、異論を挟む者は少ない。
なお当番組は1987年にギャラクシー特別賞とATP賞優秀賞を、翌1988年にはギャラクシー賞25周年記念 特別賞・ユーモア賞を受賞した。ギネスブックでは「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」として記載されたこともある。
[編集] 番組の移り変わり
レギュラー開催の司会を務めたのは、第1回~第15回第1問が福留功男、第15回第2問~第16回が福澤朗だった。
番組当初は国外へ脱出できた挑戦者の大半が「海外旅行初体験」であり、初めて見るアメリカの風景に心を躍らせる表情が演出ではなく生き生きと映像に映し出されてそれがこの番組の魅力であった。しかし時代の変化とともに海外旅行は庶民にも比較的容易に手に入る娯楽となり、相対的に挑戦者たちの驚きの価値は下がっていった。しかしながら、観光地としては行くことが困難であるバローやフエゴ島などをルートとして選択し、スケールの大きさを維持した。
そしてレギュラー開催終了から6年後の1998年、「日本テレビ開局45年記念番組」として、『ネッツトヨタスペシャル 今世紀最後!! 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ』と題して6年ぶりの復活を果たした。司会は"Mr.ウルトラクイズ"こと福留が務めた。この回は「第17回」とは称されず、ウルトラクイズのスペシャル版という意味合いのほうが強かったようである(ただし福留自身の著書『ウルトラクイズ伝説』には「第17回」と表現している)。なお、これ以降は続編の制作・放送はされていない(編成上や予算上の理由や、2001年のアメリカ同時多発テロの影響もあると思われる。しかし将来、国際情勢などの変化によって制作・放送される可能性もある)。
第1回の参加者は404人であったが、回を重ねる毎に参加者は増え続け、1983年・第7回では初めて1万人を、第1次予選の会場が後楽園球場から東京ドームに改められた1988年・第12回では2万人を突破した。そして、1998年・"今世紀最後"では実に50453人が参加。なお、この"今世紀最後"では7万人を超える応募があり、実に2万人を超える人々が東京ドームに入ることすら出来なかったということになる。かつては第1問が出題された時に、挑戦者らが知人に相談するため近くの公衆電話に駆け込む姿が恒例だったが、"今世紀最後"では6年の間に普及した携帯電話やインターネットを駆使する姿が多く見られた(しかし混線してしまい役に立たず、福留が「自分を信じなさい」と呼びかけていたので混線は番組側の想定していた事だった様だ)。
[編集] 独自の演出
タイトルはクイズであっても単にクイズの優勝者「クイズ王」を決める為だけの番組ではなく、参加者のクイズ外での表情、挑戦者同士の触れ合いなど、人間ドラマを色濃く描かれた演出が特徴的であり、また当番組の醍醐味であった。番組の主眼は“挑戦者の人間模様”そして、クイズに敗れた“敗者”に向けられ、「クイズ形式の人間ドキュメンタリー」というコンセプトがあった。そのためか、海外行きを決める大事な第2次予選でクイズとは全く関係のない「ジャンケン」を採り入れたり、敗者復活戦が随所にあったりする。番組で旅を共にしたのを機に、挑戦者同士がその後も何らかの形で交流を続けるようになったケースも少なくない。実際に挑戦者同士が結婚したケースもある。
過去の挑戦者が個人HPで記述している内容によれば、スタッフからみて面白く映る挑戦者にはその人物がクイズで勝ち抜けられるように多少の配慮(挑戦者の得意ジャンルからの出題)がなされていたようである。また編集の段階で音声をカットした上で、フルネームで答えられないから不正解としたケースもあったようだ。特に女性と年配者(ただ当番組の国外脱出した挑戦者は30代以上の人は数えるほどになってしまう)には焦点が当てられた。女性の挑戦者は男性に比べて人数が少なく、決勝戦以前に敗退してしまう事が多かったため、視聴者からみても女性の挑戦者は番組を楽しむためにも貴重な存在であった。
また司会の福留は番組当初から、挑戦者の人間模様にも焦点を当てるために、彼らのプライベート(恋人や婚約者の名前、家族構成や仕事先)などを好んで聞き出し番組の中で効果的に披露していた。時代を考慮すればそれほど違和感の無いものの、現在の感覚からするとややプライバシーに立ち入りすぎているという見方もできる。そしてこうした番組の作り方が現在においては困難であると考えることもできる(個人情報保護法のある現在では、許可なしに放送できないであろう場面も多々あった)。
数万人の頂点に立つ「クイズ王」の優勝賞品は“砂漠の土地1エーカー”、“満潮が来ると沈む島”、“もらった瞬間に爆破してしまったハウスボート”、“自分で組み立てるオープンカー(エンジンは別売り)”といったひとクセもふたクセのあるものであったり、逆に“ニューヨークの超高級ホテルに家族全員ご招待”、“世界一周旅行”、“熱気球”、“ワイン用ブドウ畑のオーナー権”といった、日常では経験できないような賞品が用意された。普通の人々が体験する未知の冒険や人間模様が画面全体に溢れ、番組が終了した現在も国民的人気を得ている。
テレビ放送は、第16回までに関しては、当時木曜日に放送されていた「木曜スペシャル」の枠で毎年10月~11月の間に放送されていた。第1回は2週のみ(それでも当初は1週のみの放送予定が2週に拡大)の放送であったが、参加者の拡大や内容の充実などにより、第2~4回では3週、第5~11回ならびに第15~16回は4週、第12~14回は5週に分けて放送された。一方、"今世紀最後"に関しては、既に「木曜スペシャル」が放送終了となっていた関係もあり、11月22・23日に2日連続で放送された。
[編集] 司会(出題・海外リポーター)
- 福留功男:第1回~第15回(第1問正解発表まで)と"今世紀最後"を担当。 決まり文句は「みんな! ニューヨークへ行きたいか~っ!!」「罰ゲームは怖くないか~っ!!」
- 第1回から実に14年間司会を務めてきた"Mr.ウルトラクイズ"。1991年の第15回(福留が日本テレビを退社した年でもある)で、「体力の限界」を理由に第1問正解発表を以って司会を引退した。
- 第15回、東京ドームでの引退宣言の際には、「なぜ皆さん、ウルトラクイズに挑戦するんですか? その答えはきっと、ウルトラクイズには日常を打ち破る素晴らしい冒険があることを、皆さんが知っているからではないでしょうか」と発し、挑戦者の感涙を誘った。
- その後、"今世紀最後"(1998年)で「56歳の私の中に、青春という二文字がまだ残っているかどうか、皆さんの胸を借りて確かめてみたいと思っております」の言葉とともに7年ぶりに司会を務めた。7年前に「体力の限界」を理由に司会の座を福澤に譲っていたが、この"今世紀最後"のために走り込み等を行い体力を養っていたそうで、番組の制作発表の席では「まだまだ若い者には負けません」と意気込みを見せていた。
- 福澤朗:第15回(第2問以降)~第16回を担当。決まり文句は「ニューヨークへジャストミート!!」
- 着任当時、入社4年目の27歳。全日本プロレス中継の実況等で活躍していた若き成長株。同年『全国高等学校クイズ選手権』でも福留から司会を引き継いでいた。彼は着任早々、番組の"名物"となっていた敗者復活戦の全面撤廃を宣言。新しいウルトラクイズの歴史を作っていくことを目指したものの、翌1992年の第16回をもって打ち切りとなった(翌年も開催される予定だった)。福澤司会のウルトラクイズが開催されたのはわずか2回だけとなった。
- 彼はサバイバル性を重視し、「明るく楽しい生存競争」をモットーに妥協を許さない進行振りを発揮した。また、挑戦者にニックネームを付けたり、敗者インタビューを極力行わないなどの傾向が見られた。
この番組の厳密な意味での「司会者」は、スタジオで進行やルート紹介を行う「総合司会」であり(後述)、あくまで出題担当の福留・福澤は「出題・海外リポーター」である(第1回より第16回まで、オープニングのクレジットでは一貫してこの表記がなされてきた)。しかし、放送が回を重ねるにつれて、挑戦者とともにニューヨークを目指し、「ウルトラクイズ」という旅の実質的な進行を行う「出題・海外リポーター」が、番組の主軸をなす意味合いが強まってきた。そのため、現在では「ウルトラクイズの司会」といえば、福留・福澤を指すことが一般的である。
[編集] 歴代総合司会・リポーター
[編集] 総合司会(スタジオ司会)
総合司会("今世紀最後"ではスタジオ司会)はスタジオで、ルートの紹介をするなど番組全体の進行を担当した。スタジオでのルート紹介は、毎回電飾が配置された地図のセットによって行われた(第13・第14・第16回は総合司会が存在しなかったため、CGによる地図で紹介された)。
- 高島忠夫 (総合司会:第1回~第12回)
- 番組内で地名にひっかけたダジャレを口にするのが印象的。第11回では敬老会(当時の年齢上限45歳チーム)代表として第1次予選にも参加したが、惜しくも敗退した。
- 石川牧子 (総合司会:第2回~第12回/総合司会アシスタント:第1回/海外リポーター:第7回・第8回)
- 高島との軽妙な掛け合いはウルトラ名物となった。また、第7回と第8回では福留のサポート役として海外リポーターも兼任した。
- 徳光和夫 (総合司会:第1回)
- 第1回のみ、高島忠夫と総合司会を担当した。
- 小倉淳 (総合司会:第15回/海外リポーター:第12回~第14回)
- 第5回では本編終了後の「プレゼントコーナー」を担当するなど、陰ながら番組初期から関わってきた。第12回より同行アナ(海外リポーター)として、福留に代わって敗者・賞品地リポートを行ったり、二重音声クイズでは共に出題を担当したりと、それまでの海外リポーターの中では一番行動派のリポーターだった。その後、第15回では総合司会を務め、ゴリラのお面をかぶるなどのコミカルぶりを見せた。
- 永井美奈子 (総合司会:第15回/コンピュータ予想:第12回)
- 第12回初登場。前任の徳光とはうって代わり、大雑把な理論で敗者予想を展開した。第15回で総合司会として再登場、小倉とドタバタタッチの掛け合いを見せた。
- 伊東四朗 (スタジオ司会:"今世紀最後")
- 司会というよりは後見人のような存在として挑戦者を見守っていた。番組の中で松本からは「お父さん」と呼ばれていた。
- 松本明子 (スタジオ司会:"今世紀最後")
- "今世紀最後"の基本コンセプトを匂わすようなコメントを多く発していた。
第1回~第12回の各回番組終了時には「勝てば天国!」「負ければ地獄!」「知力体力」「時の運」「早くこいこい」「木曜日」という高島と石川による決まり文句があった。
[編集] 敗者の味方(国内リポーター)
- 徳光和夫 (“敗者の味方”国内リポーター:第1回~第11回&"今世紀最後"/コンピュータ予想:第1・2・4・8~第11回)
- 福留の先輩という立場からか、時折福留の味方につくこともあった。時事性を取り入れたシュプレヒコールは代名詞となった。第12回と第13回では挑戦者として東京ドームの第1次予選に参加した。
- 渡辺正行 (“敗者の味方”国内リポーター:第12回~第16回)
- 前任の徳光よりも、サービス精神旺盛なアピールを見せた。
[編集] その他のリポーター
- 白岩裕之 (コンピュータ予想:第3回・第6回)
- 小林完吾 (コンピュータ予想:第5回・第7回)
- 日高直人 (海外リポーター:第9回・第10回/国内リポーター:第11回/第10回では南米・地獄ルートの出題も担当)
- 増田隆生 (海外リポーター:第11回)
- 鈴木健 (国内・外リポーター:第14回/国内リポーター:第15回/予告ナレーター:第16回)
- 菅谷大介 (第1次予選リポーター:"今世紀最後")
- 柴田倫世 (第1次予選リポーター・成田第2次予選一次審査司会:"今世紀最後")
- 郷里大輔 (ナレーター:"今世紀最後")
[編集] 主なスタッフ
- 大会総合審査委員長:白井博
- 大会委員長:高橋久仁、太田杜夫
- 審査委員長:高橋靖二
- 構成:萩原津年武、望月敏、わたなべ研一、田淵寛、原田俊弥、藤原拓也、堀越詔彦、折戸泰二郎、菊池裕一、麻川ルイ、岩沢景子、わぐりたかし、稲原誠、西田秀城、松村幸子、弓場伸治、山岡敏彦、江端裕文、村田直恵ほか
- 音楽:大谷幸、吉田邦夫
- 協力:米国商務省観光局、コンチネンタルミクロネシア航空、全日空、近畿日本ツーリスト、神本プランニングほか
- 演出:土橋正道、柏木登、加藤就一、雨宮秀彦、仲川陽介、稲垣昭彦、山根真吾、喜園伸一、狩野英一、箕野ちえみほか
- 総合演出:白井博、加藤就一
- プロデューサー:佐藤利明、鶴野徹太郎、井上雅子、小野毅、神成尚亮、初川則夫、廣田潤、下苧坪洋彦、チャールス・リー、稲塚秀孝、青海鉄山、安藤正臣ほか
- チーフプロデューサー:高橋靖二、篠崎安雄
- 製作協力:テレビマンユニオン、タキオン、才 SAI、トマホーク、チップトップ、日本テレビビデオ
- 制作:高橋進
[編集] 名物クイズ
[編集] ○×クイズ
- 国内第1次予選(第11回まで後楽園球場、第12回以降は東京ドーム)で行われたのは、○×の二択式クイズ。原則として、1問不正解で即失格。即ち、勝ち抜け決定となるまで正解し続けなければならない。但し、勝ち抜け決定者が出た問題に関しては例外で、この場合は不正解者が次の問題に挑戦することになる(不正解者から残りの勝ち抜け者を決定する形となる)。勝ち抜け決定者が規定数に達したところでクイズ終了。ちなみに、予選通過人数は100人であった(但し、第1回は80人、第15回は130人)。
- 非公式に伝えられてる事によれば(過去の挑戦者のHPによる)予選通過者100名に入っても、仕事の関係でクイズ参加を辞退する挑戦者もおり、100名勝ち抜け決定問題で落ちた挑戦者から順に「補欠」を番組側が用意しておき、欠員を出さないようにしていた。補欠がでた場合(毎回出ている)は 補欠の順番に電話をし、連絡がついた順に繰り上げしていた。その補欠連絡の電話が成田ジャンケンの前日に来る場合もあり、パスポートの準備(当時はビザも必要)をしていたか否で命運が分かれた挑戦者もいた。
- 第1回は一塁側内野席で行われ、この時は「○」か「×」のパネルを掲げる方式であった。
- 第2回以降はグラウンドで行われるようになり、お馴染みとなった"走り"(内野で問題を聞き、外野の「○」か「×」のサークルへ走る)形式が採用されるようになった。"群集心理"によって同じサークルへ大人数が一気に押し寄せるのを避けるため、第3回以降は「○」「×」サークルの手前にカラーボールのエリアが設けられた。「○」の場合は赤、「×」の場合は白のボールを拾ってから該当のサークルへ移動するというもので、ボールを拾い忘れたり、ボールの色を誤ると失格。実際にそれで失格となった挑戦者もいたようだ。
- 第3回のみ、参加者全員に風船が渡され、第1問の正解が×と思えば風船を空に放し、○と思えば持ち続けるというクイズが行われた。
- 第4回は第3回の優勝者が選手宣誓を行った後、さながら国体のように47都道府県に分かれたプラカードを掲げて○×クイズを開始した。
- 参加者の増加に伴い、第5回以降は球場の入口で第1問が発表されるようになり、○が三塁側、×が一塁側のスタンドに移動する形式をとった。これにより、第1問不正解者はグラウンドに入ることが許されなくなったのである。第1問目は出題から球場に入るまで数時間の猶予が与えられた。そのため、家族・友人・知人等に電話を掛け、正解を調べるという光景が随所で見られるようになった。公衆電話には長蛇の列が出来、後ろの列から催促がある中、必死になって答えを聞き出す場面も放送されていた。
- "今世紀最後"では東京ドームが満席となったため、第1回と同様の○×パネルを掲げる方式が採用された。また第1問は再び球場内での発表となった。
- 第1問は、毎回、決勝地・ニューヨークの自由の女神に関する問題であることが恒例である。例外は第1回、第3回、第9回。第1回では上野動物園のパンダの夫婦の名前、第3回では、「水戸黄門は徳川家康の孫である」(当時はまだ、1問目を特別なイベントにするという発想がなかった)、第9回は「パリのエッフェル塔に正面はない。」という問題(決勝地がフランス・パリだったため)が出題された。
- クイズ終了後に“敗者の味方”徳光和夫(第11回まで&"今世紀最後")・渡辺正行(第12~16回)が、大勢の敗者を味方に付け、福留・福澤に敗者復活戦を要求。毎回(お約束のように)大がかりな敗者復活戦が行われ、若干名が復活者として第2次予選への出場権を獲得していた。例外として第12回では、復活の条件に該当する人がいないことが最初からわかっている「敗者復活戦」を行い敗者の顰蹙を買った。また第15回では国内第1次予選通過者人数が130名に増やされた代わりに、敗者復活戦の廃止を宣言したとおり敗者復活戦はなし。翌年の第16回もここでは敗者復活戦は行われなかった。
- 全国から多数集まった挑戦者であっても、たった1問の不正解で失格となる。そのため敗戦の鬱憤晴らしのために、“敗者の味方”役のレポーター(徳光・渡辺)が、球場のスタンドを巡回しピコピコハンマーで敗者に叩かれる役目を兼任していた。番組初期、徳光は番組特製ヘルメットの装着のみであったが、回を重ねるごとに敗者の叩く人数・強度が急増。次第に徳光の装備も万全を期すようになり、徳光後期~渡辺期には、アメリカンフットボール選手のプロテクターよろしく完全防御態勢で敗者の“恨み”を受け止めていた。
- 徳光は「1万回は叩かれていると思うが放送で使われるのは3分。もちろん叩かれるだけで1時間半は繋げませんけれどね」と放送中にコメントしている。1万回は誇張した表現であろうが、実際少なく見積もっても100回以上は叩かれていてまた顔にマジックで落書きされた回もあった。ジャケットの上着に敗者の恨みを書かれることはほぼ毎年であった。
- 大会中、最も多くの挑戦者が参加するため、「予選」とは名付けながらも、全ての挑戦者が楽しめるようセレモニー的な要素(前年度優勝者の優勝旗返還、“敗者の味方”登場とイベント的な敗者復活戦など)も含まれ、ある意味、大会中最も盛り上がりを見せる“一大イベント”となっている。
[編集] ジャンケン
- クイズ番組でありながらクイズとは全く無関係の方式で予選を行うユーモアさがこの番組の特徴であった。この番組の趣旨:知力、体力、時の運を象徴するものである。
- 各挑戦者が1対1でジャンケンを行い、先に3回勝った方にグアム行き(第1・4・7~16回)(第1回は先に4回勝ったほうが勝ち)またはサイパン行き(第2・3・5・6回)のチケットが与えられた。(まれに敗者復活をまぜて3人でじゃんけん、またはコンピュータとのジャンケンもあった)
- “敗者の味方”徳光・渡辺が、毎回のように「ジャンケン撤廃・全員通過」を求めて様々な作戦を立て、福留・福澤に詰め寄る場面が恒例であった。しかし腕相撲となった第10回以外はことごとく福留・福澤に一蹴され、結局ジャンケンに落ち着いていた。ジャンケンの敗者は空港の送迎デッキから勝者の乗る飛行機に「お前たちは非国民だ!」「非国民だ!」「日本に帰って来るな!」「帰って来るな!」(徳光の時はその年の出来事にひっかけたフレーズが言われるなどの演出が施されていた)など“負け犬の遠吠え”とも取れるシュプレヒコールを浴びせるのが恒例化した。なお第15回のみ「敗者本音絶叫クイズ」と題され、二択問題を4問出題し正解の方のフレーズをシュプレヒコールとして叫んだ。
- 主に、成田空港(第1回のみ羽田空港)で行われた国内第2次予選(または"国内第3次予選")で行われていた。なお、番組上では「成田空港」と表記されていたが、実際は空港敷地内にある成田エアポートレストハウスで行われていた。
- 後楽園球場・東京ドームでの国内第1次予選を通過した挑戦者は第2次予選前日に東京都内の日本テレビに集合。番組が用意したバスで成田エアポートレストハウスに向かい、ここで1泊。翌朝に予選を行った。これは早朝ロケに確実に挑戦者を出演させるため。ただし、第1回は前日に会場のホテルで1泊するような事は無く、ジャンケン当日朝に東急羽田ホテルに集合させていた。当日、早朝にも関わらず80名の挑戦者のうち、78名が集合した。
- 第6回では予選方法が「クイズ」に改められたが、そのクイズの解答権を得るのは"ジャンケンで先に3回勝った方"で、「日本の首都はどこ?」のように"容易に正解できるであろう難易度の問題"であった(不正解の場合は負けた方に解答権が移る。また両方間違えた場合は両方が失格)
- 第7回では"敗者の味方"徳光の「敗者がグアムに行ったっていいじゃないか」との要望により、全50組中10組についてはジャンケンで先に3回"負けた"方にグアム行きのチケットが与えられた。また、第7回で初めて男女同数(50人対50人)の挑戦者となったため男vs女でジャンケンが行われ、「勝」「負」のポイント選択は女性が選ぶことができた。
- 第8回では通常のジャンケンであったが、参加者の1人は「マイコンボーイ」とあだ名され、ジャンケンの手順を自動的に選んでくれる小型コンピュータを持参し、実際それで3連勝して勝ち上がってしまった。
- 第9回では当時入社1年目の新人アナ日高直人による腕立て伏せの回数によって"ジャンケン"か"全員通過"かが委ねられ、この結果見事"全員通過"。しかし、その直後、"国内第3次予選"としてジャンケンが開催された。
- 第10回では徳光の"ジャンケン撤廃"のシュプレヒコールが実を結び、腕相撲に切り替えられた。なお、公平を期すため、"男対男"または"女対女"で、体重も出来る限り近い者同士という組合せで行われた。しかし、この腕相撲は不評だったようで(体重で対戦相手を決めた事が必ずしも公平だったとも言えない)、翌年の第11回ではジャンケンに戻っている。
- 第11回では日本テレビ集合後、成田ではなく埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)の"久伊豆神社"へ向かい、ここで国内第2次予選を行った。挑戦者1人ずつおみくじを引き、「凶」を引いた人のみが早押しクイズに挑戦。実際に「凶」を引いてしまったのは3人。この3人によってクイズが行われ、1人が「大凶」として失格(この失格者は名古屋での敗者復活戦に回ることになる)。残りの挑戦者は改めて成田へ向かい、翌日に国内第3次予選としてジャンケンを行った。
- 第15・16回では一組対戦のみの「炎の一本勝負」が行われた。ジャンケンに1回勝てば即通過、負ければ失格となった。第15回ではあたかも敗者復活があるかのごとく振舞われていたのに最後まで行われず敗者の顰蹙を買った。また、福澤に食って掛かって来る事もあった様である。
- "今世紀最後"ではジャンケンではなく"ピカイチ技"で競った。挑戦者がそれぞれ特技(ジャンル不問)を披露するというもので、番組審査員からの支持を得た者がグアム行きのチケットを獲得。"ピカイチ技"を通過できなかった挑戦者はゆで卵の"ポン食い"に挑戦、残りの勝者を決定した。ただ、この回でのジャンケンは撤廃されたわけではなく、第2次予選勝者決定後、勝者のうち2人(立候補で決定)が“掟破りの大勝負”ジャンケン3本勝負を行い、勝者はグアム・ハワイをスキップして、成田から一気にサンフランシスコまで先回りすることができた。ジャンケン敗者はグアム行きチケットを剥奪され、ピカイチ技・ポン食い敗者と共に自分が失った1枚のグアム行きチケットをかけて大ジャンケン大会に参加した。この大ジャンケン大会に勝った1名が「敗者復活」となり、グアム行きの飛行機に追加搭乗できた。
- 敗者にインタビューする徳光は第2回から既にアメフト並みのプロテクターを装備。以降渡辺にも引き継がれた。
- 司会の福留の番組作りは実に巧妙で「まだ諦めることは無いんだ!(相手にポイント先取されて落ち込む挑戦者に)」「ほらきた!(劣勢を跳ね返した挑戦者に)」「勝ちたい、その気合が大事だよね!」「結局やるしかないのであります!」「○○(大学名)なんか切っちゃいなさい!」「何のために会社辞めてきたんだ!」「おめでとう○○さんの勝ち~!」など、ジャンケンの勝ち負けにドラマ性を持たせて演出した点は特筆すべきものがある。
[編集] 機内ペーパークイズ
- 成田空港での国内第2次予選を勝ち抜いた挑戦者はグアム(またはサイパン)行きの飛行機に搭乗。その飛行機内がそのまま「第1チェックポイント」となり、三択式のペーパークイズに挑戦した(第1回はパンアメリカン航空、第2回~第10回と"今世紀最後"ではコンチネンタル・ミクロネシア航空、第11回~第16回は「木曜スペシャル」のスポンサーでもある全日空機を使用)。
- 問題数は第1回が800問、第2回は500問、第3回以降は400問。1問あたり5~6秒のペースで答えなければならず、まさに時間との戦いでもあった。解答の形式は「1」「2」「3」の枠の一つをマーカーで塗るというもの(書き直しは不可)。
- 着陸後に結果発表。第1回のみは客室乗務員の機内アナウンスにより発表されていたが、第2回以降は飛行機から降りるタラップの最下段に敷かれた「ブーブーゲート」によって発表された。挑戦者が1人ずつタラップを降り、ブーブーゲートを踏む。何も鳴らなければ次のチェックポイントへ進出できるが、“ブー”とブザーが鳴ってしまった場合はここで失格。異国の地を一歩も踏むことは許されず、同じ飛行機でそのまま日本へ帰国(強制送還)となる。
- この400問ペーパークイズは挑戦者の実力を測る試金石であり、また、ペーパークイズによって各挑戦者の得意分野・苦手分野などをチェックする目的があった。歴代優勝者をみると、このペーパークイズにおいて概ね好成績をおさめている。
- 司会の福留・福澤は挑戦者の解答中に、放送用に低い声で「今、皆さんが解いている問題をいくつか紹介します」と言い、問題文と選択肢3~4問程度を紹介した(選択肢と答えは字幕)。また番組初期の頃、制限時間が迫ると福留が「とにかくマークしろ」と挑戦者に声をかけた。これは無回答による点数のばらつきを防ぐためであった。なお、ペーパーテストの後は機内食があった(先にペーパーテストを行うのは食事による影響を防ぐためといわれていた)。
- 第10回では飛行機が2機用意され、空港の搭乗口が第1チェックポイント。1問限定の○×クイズを行った(問題は1978年に成田空港が開港したときの一番機に関するものだった)。挑戦者は"○機"か"×機"のいずれかを選択して搭乗。離陸後に両機内で正解が発表された。ここで第1チェックポイントは終了。正解機はそのまま第2チェックポイントとして、一方の不正解機は条件付きの敗者復活戦として機内ペーパークイズを行った(勿論、両機とも同じ問題が用意された)。正解機の中で誤答機の最低得点者を下回った挑戦者が出た場合、その挑戦者を失格とし、代わりに誤答機から成績上位者を敗者復活者としてグアムに上陸させた。仮に、正解機から失格者1名が出た場合、誤答機から5名が復活する"1対5"の大型トレード。結果、正解機から2名が失格し、誤答機から10名が復活を果たした。
- 第11回では成田(ジャンケン)の敗者復活戦が名古屋で行われ、7名が復活。その7名は当日夜に名古屋からグアムに向けて出発。勿論、この7名にも機内でペーパークイズが行われ、勝者便の平均点を上回った3名がグアム上陸を果たした。上陸後、勝者便の中から成績の低かった3人が急遽呼び出され、計6人による早押しクイズ。3人が通過を果たし、残った3人は翌日のクイズを行うことなく失格となった(結果、名古屋の復活者3人が全員通過)。
- 第15回ではブーブーゲートを改造し、「ピーピーゲート」という機能が加わった。ボーダーライン前後挑戦者10名程に対し「ピーピー」音が10秒ほど鳴り、その後「ピンポン」とチャイムが鳴れば勝ち抜け、「ブー」とブザーが鳴れば失格となった。
- 第16回では着陸直前にグアムを台風が直撃。一時は着陸不能も懸念されたが、操縦士の腕前が上手く、無事着陸に成功。しかし、空港での結果発表はとてもできる状態ではなく、このため“緊急避難”として挑戦者全員を一度飛行機から降ろすことに(飛行機に乗った全ての挑戦者が異国の地に上陸したのは公的には後にも先にもこの時だけだが、実際には第6回も空港の都合で全員がグアムに降りてホテルに泊まっている)。その後、バスで当日宿泊するホテルに向かい、到着後に結果発表。バスから降り口に設けられた“ブーブーステップ”(原理は“ブーブーゲート”と全く同じ)によって発表された。失格者はホテルへの宿泊を許されず、同じバスで空港へ逆戻り。そのまま日本へ送還された。
- "今世紀最後"では三択クイズを廃止。「フィッシュorチキンクイズ」が行われた。クイズ前に客室乗務員から希望の機内食(魚料理か鶏肉料理)を尋ねられ、「魚」と答えた人は魚の種類を、「鶏肉」と答えた人は鳥の種類を知っている限り漢字で書くというものであった(漢字が合っていれば1ポイント、読みも合っていればさらに1ポイント)。
- 第1回では、あまりのハードな状況に、体調を悪くする挑戦者が続出した。この対策として、以降、何問かに1問の割合で、「冥王星を発見したのは? 1.ヤンボー 2.ニンボー 3.トンボー」のようなくだらない問題を混ぜて挑戦者の緊張感を和らげた。
[編集] 突撃○×泥んこクイズ
- 主にグアムで行われたクイズ形式で、番組の看板クイズの一つとして挙げられる。○と×が描かれた2枚の大きなプレートの向こうに泥のプールが掘られている。挑戦者はどちらかのプレートに向かって飛び込む。正解の方にはマットが敷かれているが、不正解の場合は泥のプールの中にそのまま突っ込むこととなり、全身泥まみれとなる。誤答すること自体が罰ゲームになるクイズ形式であった。
- 眼鏡をかけている挑戦者は「眼鏡を預かろう」と言う司会・福留に眼鏡を渡してからプレートに走っていった。事故を未然に防ぐためである。またコンタクトレンズ装用の挑戦者も事前にコンタクトレンズを外すように求められた(これも泥のプールに入った後の事故を防ぐため)
- 第4回で初登場(このクイズでの“犠牲者”第1号となったのは前々回優勝者であった北川宣浩)。好評のため、翌第5回でもサイパンでの敗者復活戦として実施されたが、怪我人(手本で飛び込んだスタッフ)の発生もあってか、第6回では行われなかった。第7回で泥んこプール拡大の対策と共に再登場。その後はグアム名物として、すっかり恒例化した。
- 第13回では泥んこクイズの後、敗者復活戦として"逆泥んこクイズ"なるものが行われた。これは文字通り、通常の「泥んこクイズ」とは逆のルール。即ち、正解ならば再び泥んこのプールの中。マットに救われた場合は不正解というものであった。
- 第14回(「台風直撃!! 緊急事態○×クイズ」)ではクイズ当日に台風直撃。前夜に作り上げた泥んこクイズのセットは“壊滅”状態となってしまった。このため、急遽「○」か「×」どちらかのボードを掲げて答える形式に切り替えられた(正解は福留が口頭で発表)。なお、クイズの会場は当初の予定通り、泥んこクイズのセットが設けられたビーチ。そのため、挑戦者&福留は全員雨でずぶ濡れという悲惨(?)な状況となった。なかには正答・不正答にかかわらず“壊滅”状態の泥んこプールに自ら飛び込む“元気な”挑戦者も多数いた。
- 第16回では前日に台風が直撃。この影響で電気も水道もストップして泥んこクイズのセットを作ることができず、空席待ちの早押しクイズに変更された。抽選順に並び3つの早押し機から1つを選択し列を形成。列の先頭の3人がクイズに挑戦し、1問正解で勝ち抜け。お手つき・誤答はその人のみ、正解者が出た場合はその他の2人、問題がキャンセルされた場合は3人とも最後尾にまわるというもの。
- “今世紀最後”では、このクイズ形式が決勝(西インド諸島)で登場している。(後述の「決勝戦」参照)
- 答えが×の問題、特に冷静に考えれば明らかに×と分かる問題にも関わらず○に突撃した挑戦者に向けられる、福留の「そんなわけねぇだろ!」の絶叫は、このクイズのひとつのお約束となっていた。このクイズは解答者が1人のため、第1次予選では出題されないような、誰がどう考えても絶対に×という問題も出題された。
[編集] 1対1対決・早押しクイズ
- 主にハワイ等、挑戦者がまだ多い段階で行われていたクイズ。各挑戦者が1対1で早押しクイズを行い、敗者はその場で何らかのペナルティを受けるのが通例となっていた。
- これまで行われた1対1の対決型早押しクイズは下記の通り。
- 第1回:ハワイの船上にて行った。3ポイント勝ち抜け、お手つき・誤答は-1ポイントで、-3ポイントになると失格。
- 第3回:ハワイの船上での"ダイビングクイズ"。挑戦者はサーフボードに乗りながらクイズに挑戦。2ポイントで勝ち抜け。敗者は真下の海に落とされる。このクイズは第4回、第9回(「クイズ・ジャポン ワイらキキ一髪」)、第16回(「対決ドボンクイズ」)でも行われた(第9回では敗者復活戦の三択アンケートクイズが行われ、15名中3名が復活)。
- 第5回:アカプルコの海岸で行われた"ドラフトクイズ"。挑戦者を2組に分け、片方の組の挑戦者1名と対決したい挑戦者をもう一方の組から挙手制で募り、1対1の早押しクイズ。3ポイントで勝ち抜け。ただしこの回のみ負けても即敗者でなく再度対戦することができ、最終的に残った1名が敗者となった。
- 第6回:アラスカの大氷河をバックにして行った。2ポイントで勝ち抜け。
- 第11回:ロサンゼルス・ハリウッドでの"戦車ロシアンルーレット"。早押しクイズに正解したところで、戦車5台のうち1台を指名。指名した戦車から砲弾が発射されれば勝ち抜け(砲弾が発射される戦車は2台)。
- 第14回:タヒチのビーチでの「無人島カヌー対決クイズ」。2ポイントで勝ち抜け。敗者はカヌーで沖へと引きずられて行く。その後、敗者復活戦で近似値クイズが行われ、12名中5名が復活。
- 第15回:ハワイの砂浜でのクイズ。挑戦者はあらかじめ用意された穴に入り、ここでクイズに挑戦。1問正解するごとに相手の穴にバケツ3杯分の砂が入れられる。3ポイントで勝ち抜け。お手つき・誤答は対戦相手に自動的に解答権が移動。敗者は首から下が砂で完全に埋められる(ウルトラクイズ史上、罰ゲームが非常に厳しすぎるクイズ。罰ゲームを受けた挑戦者は、余りにもつらかったに違いない。また、視聴者からも苦情が多く、ウルトラクイズファンからも「厳し過ぎる」との声があった)。
- "今世紀最後":ハワイ上空4000メートルでの「負けたらスカイダイビングクイズ」。2ポイントで勝ち抜け。お手つき・誤答は-1ポイント。敗者はその場からスカイダイビング(勿論、インストラクターが同伴)。
- 第1回と第3回でいずれもハワイまで進出しながら、両方とも偶然、後の優勝者と対戦することになって先に進めなかった挑戦者がいた。
[編集] 一問多答・団体戦クイズ
- 初登場は第9回。主に挑戦者が多数残っている、序盤で行われていた名物クイズ。大抵は体力クイズであった。
- まず、問題文を読む前にチーム対抗で競技を行い、勝ったチームに問題文が読まれ、解答権が与えられる。問題は一つの問題に複数(最低でもチームの人数以上)の解答がある問題で、チームの各メンバーが1つずつ答える。全員正解したらチーム丸ごと勝ち抜け。最後まで残った1チームが失格となるが、多くの場合は敗者復活戦が行われる。
- 初めて登場した第9回のサンフランシスコ(第4チェックポイント)では、1チーム6人編成で3チームに分かれてのバケツリレー。ドラム缶に水を一定量入れた最初のチームに解答権が与えられ、一問多答クイズに挑戦。チーム全員が正解すれば勝ち抜け。残りの1チームは一問三答の早押しクイズに挑戦、4名が勝ち進んだ。
- 第10回のハワイ(第3チェックポイント)では4チームに分かれて「4方向綱引き」が行われた。綱引きで最後尾の1人がパネルを蹴ることにより解答権を取得、1チーム7人が一問多答クイズに挑戦。その後3チームで3方向綱引き、2チームで通常の綱引きで上位3チームが勝ちぬけ、敗れた1チームから1人が敗者復活した。チームの組み分けは挑戦者の所持金で「金持ち」「中流」「貧乏」「極貧」の4チーム(各チーム7人ずつ)最高所持金者は日本円にして50万円ほど、最低所持金者は当時のドルで100ドルほど。
- 第11回のハワイ(第3チェックポイント)でも4チームに分かれて「4方向綱引き」が行われた。回答権取得方法は第10回と同じ。チームの組み分けは手相で占い、ウルトラクイズで勝ち残り予想の長さで「亀」「鶴」「普通」「かげろう」の4組に分かれた。3チームが勝ち抜け、その後、敗れた1チームから3名が敗者復活を果たした。
- 第12回のバロー(第3チェックポイント)では"人間ピラミッド"(下段3人、上段2人、合計5人で1組)が行われ一問多答クイズに全員正解後、歌詞と音声を省いたカラオケの映像のみを見せ、曲のタイトルを答えるという"通過クイズ"に挑戦。正解したところで勝ち抜け決定となっていた。人間ピラミッドの組み分けは事前に体脂肪を測定し体脂肪率の高い順に「クジラ組」「アザラシ組」「シロクマ組」「カリブー組」の4チームに分けられていた。これについては体脂肪の一番軽いカリブー組がやや有利で体脂肪の一番重い「クジラ組」がやや不利であったかもしれない(クジラ組の5人が失格、そのうちの3人が敗者復活)
- 第13回のゴールドコースト(第4チェックポイント)では海水浴客を守るライフセーバーに見立てたクイズ、「"ライフセーバー"のようなクイズ」が行われた。チーム編成は6人1組。1人が"溺れ役"となり、沖で待機(待機地点には挑戦者が本当に流されないようロープが張られていた)他のメンバーが"ライフセーバー役"となり、"溺れ役"を助けに行き、砂浜に戻ってくる。一番早く戻ってこれたチームに解答権が与えられた。クイズに先立ち、挑戦者一人一人がビデオレターにて家族にメッセージ。その内容によってチームが分けられた(真剣にクイズに取り組んでいる"健全組"、仕事・学業・家族等を気にしている"仕事組"、遊びついでに参加している"遊び組"、単なる普通の人達である"普通組)。3チームが勝ち抜け、その後、敗れた1チームから"ダウトクイズ"で4名が敗者復活を果たした。
- 敗者復活戦で行われた"ダウトクイズ"。要は、他の挑戦者を騙し通すことができれば勝ち抜けというもの。早押しで解答権を得た挑戦者は正解・不正解どちらを言っても構わない。正解を言って他の挑戦者から"ダウト"の声が掛かるか不正解を言って誰からも"ダウト"の声が掛からなければ勝ち抜け。
- 第14回のオレゴン街道(第5チェックポイント)ではマラソンクイズ(後述)と合体したクイズ「幌馬車マラソンクイズ」が行われた。1チーム4人構成で、幌馬車の後部に設置された早押し機にて初め1問1答クイズを行い、メンバーの2人が正解すると、残りの2人に対して1問2答クイズが出題された。1人1つずつ答え、ともに正解すれば4人全員勝ち抜け、1人でも不正解の場合はまた1問1答クイズからやり直し。3チームが勝ち抜け、その後、敗れた1チームからリレークイズで1名のみが敗者復活を果たした。
- "今世紀最後"ではグアム(第2チェックポイント)で、「大家族! 綱引きドロンコクイズ」が行われた。7人ずつの6チームに分かれ、綱引きを行う。勝てば解答権を得られる。綱引きに負けると引っ張られ、中央のドロンコプールに落下する。このときの罰ゲームは、当時日テレのキャッチコピーだった“日テレ営業中”のCM収録を行った。“福留監督”のもと、ドロンコまみれになった挑戦者たちが「日テレ営業中!!」と、ドロンコプールの中から絶叫した。
- 放映では編集されていたが実際の収録は時間がかかっており、勝ち抜けたチームは心から嬉しそうに抱き合ったり、万歳をしたり、喜びを体一杯で表現し、これもこのクイズの見所であった。
- 参加者同士は本来ライバル関係のはずであるが、このクイズはチーム戦ということで、「(もうあきまへん、と萎えるチームメイトに)がんばろうよ~(第10回)」の励ましあいの一致団結の姿が見せ場となっていた。逆にチームのうちの1人が簡単な問題で間違えると「北極圏だよ! 聞いてろ、問題を! (第12回)」「(河合奈保子と誤答し)あ、ちがったごめん(その後にチームの仲間にどつかれる、これも第12回)」などの一時的仲間割れもあり、人間模様を映し出すことに成功していた。
[編集] 奇襲クイズ
- 真夜中、挑戦者が熟睡している所を福留・福澤やスタッフに叩き起こされ、寝ぼけた状態でクイズを行わなければならない。クイズ形式は○×クイズまたは早押しクイズ。○×クイズの場合、挑戦者が一斉に○×の札を上げるが、挑戦者には正解を教えず、視聴者にだけこっそり教える。そして、単独最下位が出たところでクイズ終了。ここでも失格者はすぐに発表せず、不安な状態のまま挑戦者を解散させて、翌日に失格者を発表するのが代表的な例。
- グアムやハワイ等、挑戦者の人数が多い前半のチェックポイントで実施されることが多かったが、第15回では残り5名となった時に実施され、まさに奇襲であった。「ウルトラクイズって信じちゃいけない番組だったんですね」という名言を生んだのもこの形式。
- 第8回グアム(第3チェックポイント)では奇襲・敗者たらいまわしクイズが行われた。深夜熟睡中(午前2時頃か)の挑戦者の部屋へ行き、起こして3人早押しで1ポイント勝ち抜け。負けた1人はくじを引いて次の部屋へ行き、また3人で1ポイント勝ち抜けの早押し。最後の部屋で負けた1人が敗者。
- 第13回グアム(第3チェックポイント「3時のあなた 私がマクラをかかえたらクイズ」)では、司会・福留が挑戦者の部屋(2人一組)を訪ねて起こし、午前3時に挑戦者25人をホテルの一角に集め、○×クイズを行った。答えはその場では発表せずに翌日空港にて発表("禁オーストラリア"マークの入った航空券を受け取った者が敗者)。
- 第14回タヒチ(第4チェックポイント)では、「早い者勝ちクイズ」と称し挑戦者が観光している最中にいきなりクイズ開始(解答席は2つ)先に解答席に来た2人で1:1のクイズを決行。正解した方は「ゲリラクイズ」免除で勝ち抜け。負けた方は「ゲリラクイズ」でタヒチで観光している他の挑戦者に不意打ちでクイズを仕掛けていく形式(1:1の早押し)、1ポイント勝ち抜けでお手つき・誤答は1回休み。ゲリラクイズは夕方に始まり、夜、深夜、早朝、翌日午前中まで勝ち抜けしていない挑戦者を狙ってロケが続けられ、最終の1:1早押しクイズで負けた挑戦者が敗退。司会の福留によれば「ロケ約20時間、だれのための罰ゲームだ、わたしゃヘロヘロだよ」とコメント。
- 第15回オーランド(第12チェックポイント「奇襲大作戦」)では、マラソンクイズに勝ち抜けた挑戦者が就寝中の午前3時に突然叩き起こされる。外にあった早押し機に到着次第クイズに挑戦。3ポイント勝ち抜け、お手つき・誤答は-1ポイント。
- 第16回ハワイ(第4チェックポイント「真夜中のウルトラツアー○×クイズ」)では、午前2時に"深夜のハワイ観光"と称し、突然挑戦者をバスに乗せ、ハワイの名所を回りながら○×クイズを行った。結果は翌日の出発直前、挑戦者をビーチに集めて遠い沖のところにある双眼鏡を見て発表(敗者はゴムボートで沖に流されている荷物を海に入ってとりに行かなければならない)。
- "今世紀最後"では、グアムでのチェックポイント終了後のお買い物タイム中に行われた。(奇襲クイズ団体行動)集合時刻(お買い物終了時刻)ちょうどに移動のバスの前でクイズスタート。当然、優雅に買い物していた人は、出だしの何問かを答えることが出来なかった。さらに"今世紀最後"の奇襲クイズはまだ終わらず、この「バス前○×クイズ」で全問不正解だった3人に対し、最下位決定戦(深夜の出前クイズ)が深夜に宿泊するホテルにて行われた。
奇襲クイズ形式に類似するもので、第5,6,7回では「早起き先着順」とクイズ、第8回では「朝食の完食順」とクイズを融合したものがある。第5回は早起きと早押し、第6回は早起きと推理小説解読と早押し、第7回は早起きと綱引き、第8回は早食いと綱引き。
[編集] バラマキクイズ
- 初登場は第3回ツーソン。以来、第16回まで毎年開催された。モハーベ砂漠などの広大な場所で、ヘリコプター等を使い上空からクイズの問題が入った封筒がばらまかれる。挑戦者たちは解答席からその地点まで走り、その中から1枚を拾って出題者の元に戻り、そこで出題者が開封して出題された問題に解答する。大抵1問1答問題。広大な大自然を利用してクイズを行う、ウルトラクイズならではのスケールの大きな形式で大いに好評を博した。
- 封筒の中には、毎回様々な確率で"ハズレ"と書かれた、問題の入っていない封筒が存在した。福留・福澤が「これを何と読む!」「ハ(歯)がズレると書いて何と読む!」などと言って封筒の中身がハズレであることを知らせると、挑戦者は再び封筒を取りに行かなくてはならない。また、何度もハズレを当てた人には「二度あることは三度ある!」と言って知らせたことがある。
- 初登場の第3回ではスタッフの手書きで「ハズレ」と書かれた白い紙をカメラに見せていた。後に有名な「ハズレ」と赤地に白いヌキ文字で印刷された文字を見せるようになった。
- 第4回ではソルトレイクシティで、近場は正解率50%の問題、遠場は正解率90%の問題と分けて(どちらの場合もハズレが混ざっている)挑戦者の運と人間模様を映し出した。
- このハズレを何回も続けて引いてしまう挑戦者(第3回、第8回、第12回いずれも女性挑戦者)が出て、それにめげずに最後まで諦めずにがんばる挑戦者の姿勢がこのクイズの見所となっていた。
- 第7回オルバニーでは、封筒にパラシュートがついて、少しずつパラパラ落ちてくる「落下傘パラマキクイズ」になった。
- 第8回では挑戦者の引いた袋の中から回収中に問題が抜け落ち、中身(クイズ問題)が無い事態が発生。ハズレ扱いとなった。また最後の勝ち抜けについては毎年のことながら勝ち抜けを切望した挑戦者同士の鬼気迫る闘いが繰り広げられた。
- 第9回ロンドンではバース公爵家の巨大迷路に問題がばら撒かれた。(「迷路バラマキクイズ」)3ポイント勝ち抜け。封筒の中には問題が3問入っており、上手くいけば一発で勝ち抜けも可能だった(実際に一発勝ち抜けを果たした者はいなかった)。ちなみに、ここでは"ハズレ"はなかった。
- 第10回では例外的にラッキーチャンスとして封筒の中に2問、問題が入っていて、しかも正解がしりとりになっているというものもあった。ただしこの場合は2つとも答えられなければ不正解となった)。放送ではこのしりとりに正解して一気に勝ち抜けた挑戦者は2人。
- 第13回のモーリー(第5チェックポイント)では「史上最大! サバイバルクイズ」と銘打ち、バラマキポイントが通常の3倍遠く(女性挑戦者にハンデ有)、さらに挑戦者22名の中から約1/3である8名を振るい落とす壮絶なクイズとなった。ちなみに1/4がハズレだった。
- 第14回のソルトレーク(第7チェックポイント)では敗者決定戦に使用された(当初、2名が失格となる予定であったが、4名が同点で最下位となってしまったため)。
- 第16回のサンタフェでは、バラマキポイントが2ヶ所あり、スタート地点より近いヘリコプターエリアには「ハズレ」が50%の確率であり、遠いインディアンエリアには「ハズレ」がなかった(インディアン嘘つかないという意味らしい)。
[編集] 三択クイズ
- 第1回から行われていたクイズ形式。一部の回を除き、ほぼ毎回実施していた。大抵は各チェックポイントにゲストを招待し、そのゲストに関する問題を出していた。「私はある特技をもっています」「私はある競技のチャンピオンです」等という出題形式で、三択で解答するもの。単なる知識だけでは対応できず、ひらめきや運などを大いに必要とする形式であった。また、チェックポイントの各地を回り、その現地に因んだクイズが出題されたこともあった(第5回メンフィス、第14回アーチーズ)。どの回も規定数(3問程度)正解したところで勝ち抜け。複数人が同時に規定正解数に達し、勝ち抜け予定者数を上回った場合は"同点決勝"を行っていた。
- 第5回プラサメヒコでは、メキシコの小学生95人に対して三択のアンケートを行い、どの答えが最も多くなるかというクイズを行った(なお、後述の『史上最大の敗者復活戦』でも、宮城県野々島の住民100人による同じ形式のクイズが行われた)。
- 第7回バンクーバーでは1~3の札2枚ずつと空白の札1枚が各挑戦者に渡された(空白の札には手書きで好きな数字を入れる)。不正解の場合、掲げた札を捨てなければならず、手持ちの札が全てなくなると失格となった。
[編集] インスピレーションクイズ
- 第10回シアトル、第13回シドニーで行われたクイズ。現地に住む外国人の方々をゲストに迎えてのクイズ。ゲストの方に日本の伝統的な何かを見せ、彼等に「これはどういう用途がありますか?」と問い、外国人ゲストの答えから類推して「何をゲストに見せたか」をボードに記述して当てる形式。文化の違いを逆手にとり、挑戦者の思考力の柔軟性を試すものであった。ただし、「剣山」は2回(第10回、第13回両方とも)出題されている。そのほかには「十手」「ふとんたたき」など。
[編集] タンゴクイズ
- 第12回ブエノスアイレスで行われたクイズ。早押しマットにたどり着くまで基本ステップ+オーチョ(8の字)+ラ・クーナ(ゆりかご)の3つのステップを踏まなければならないため、一直線に走ることができない。早く早押しマットにたどり着きたい挑戦者がルールどおりステップを踏まなければならないジレンマと戦う姿が映し出されていた。細かい点を言及すると、女性挑戦者はステップ数が多く本人の意思次第で急ぐことができ、男性挑戦者は「待ち」のパートがあり、急ぎたくても急げない(パートナーのステップを待たねばならない)。男女の体力差を若干考慮した見事なクイズであった。誤答の場合は後ろでタンゴの指導者にステップを習ってから回答位置に戻ってくる。
[編集] 恐怖のジェットコースタークイズ
- 第9回のオーランドで行われたクイズ。早押しクイズ2ポイントで勝ち抜け。お手つき・誤答はマイナスポイントが付かない代わりに解答席にピエロの人形が置かれる。人形を2個置かれたところで、後方の(360度回転)ジェットコースターに乗ってこなければならない。勿論、ジェットコースターに乗っている間も問題が出題され続けている(しかし演出も兼ねて「ちょっと見ましょう」と多少の待ち時間を設けていたようである)。
[編集] ダブルチャンスクイズ
- 早押しで最初にボタンを押した人がお手つき・誤答をした場合、別の挑戦者1人に新たに解答権が与えられる形式である。通例、司会者が効果的に「ダブルチャンス!」と声をかけて2度目の早押しを促す。この形式は以後のウルトラクイズや高校生クイズで「このクイズにはダブルチャンスがある」という、ルール上の一般名詞として使われるようになる。第7回のデスバレーで初めて行われた(不正解の場合、後方のトランクまで走り、服を1枚着込むペナルティが課せられた)。以後、第8回のキーウエスト(不正解の場合、後方の浜辺で潮干狩りを行い、ハマグリを1個獲ってくる)、第9回のアナポリス、第10回のロサンゼルス(ここでは“大声組”と“念力組”に分けられ、初めは“大声組”にのみ解答権。不正解またはキャンセルがあった場合、“念力組”に解答権が移動する形式であった)、第14回のエリーで行われた。
[編集] 砂時計クイズ
- 第10回エルパソで行われたクイズ。1分間の砂時計による電源と早押しクイズを組み合わせたもの。挑戦者はまず、早押し席後方にある砂時計(1分間持続)に砂を溜めなくてはならない。その砂時計が機能している間のみ、早押しボタンが作動する。砂が無くなると早押しは反応しない。そのため、挑戦者は砂時計の砂が無くなる前に早押し席から砂時計の場所に戻り、必死になって砂時計の砂を補充するという一種の体力クイズを強いられた。大自然とクイズを見事に融合したものとして知られている。
[編集] サッカークイズ
- 第12回サンパウロで行われたクイズ。挑戦者はそれぞれが割り当てられた色のサッカーボールを蹴ってゴールを狙う。問題文が読み終えられた後、笛の音を合図に一斉に挑戦者がボールを蹴る。キーパーは笛が鳴るまでは背を向けて挑戦者を事前に確認することができない。複数の挑戦者が一斉に蹴るボールを器用にはじき、最終的に一番先にゴールの中に入った挑戦者が解答権利を得ることができた。誤答するとキーパーにより、ボールは蹴られ、ゴール中央付近までボールを取りに戻らなくてはならない。(余談であるが、キーパーは2人おり交代制。キーパーは始めに蹴った球を優先的に弾いていた傾向があり、あとから蹴った挑戦者が隙を突いてゴールする場面がたびたび見受けられた。これも一種の作戦といえる)クイズの答えを1人だけ知っていてもキーパーとの1:1の勝負では必ずしも有利とは限らない。その点でこのクイズもクイズに強い人が優先的に勝ち抜けるとは限らない点で、ウルトラクイズの面白さを引き出していた。
[編集] 二重音声クイズ
- 第13回ブルーマウンテンで行われたクイズ(第12回の敗者復活、第14回の敗者決定でも使われた)。出題者が2人(福留+小倉淳)でそれぞれの問題文を読み上げる。答えは2つあり、その2つとも正解しないとポイントにならない。
- 出題パターンは3つに分けられる。
- 問題文の読み上げが途中まで同じで後半が違うタイプ
- 問題文の読み上げが始めから違い、答えが似ている(洒落になっている、NATOと納豆、カートンとピンカートン)タイプ
- 問題ジャンルも正解も全く異なる(ハリマオと6ヵ月)タイプ
- 特に2は機知に富んだ出題と言え、好評を博した(しかし問題文は始めから全く違う文章を読まれるために難度が高い)。
[編集] 災難クイズ
第12回フェゴ島で行われたクイズ。クイズ形式は早押し。解答権を獲得した挑戦者は自ら答えても良いし、他の挑戦者に解答権を押し付けても良い。
- 自らが解答した場合
- 正解→+1ポイント、不正解→-1ポイント
- 他の挑戦者に解答権を押し付けた場合
- 指名された挑戦者が正解→相手側に+3ポイント、自らは-3ポイント
- 指名された挑戦者が不正解→指名した側自らが解答
- 正解→自らに+3ポイント、相手側は-3ポイント
- 不正解→自らは-3ポイント。相手側はポイント変動なし
+5ポイント勝ち抜け。但し、-12ポイントになると失格。この時挑戦者は7名で、最初4人が勝ち抜けて2人が失格となった(後で敗者復活戦あり)が、最後の1人は5ポイントに達していなかったが自動的に勝ち抜けた。
[編集] タイムレースクイズ
出題時間を限定して行われたクイズ。限られた出題時間の中でどれだけポイントを獲得できるかを競った。クイズ終了時点で最も獲得ポイントの少ない挑戦者が失格となった。
- 初登場は第11回のカンクン。日の出直前にクイズが開始され、太陽が海から完全に登り切ったところで終了。海から太陽の先端が出始まってから1分間、1問正解2ポイントに切り替えられた。この回ではお手つき・誤答は-1ポイントで終わった時点でマイナスポイントを取っていた人が敗者となった(1問も答えなかった人は勝ち残り)。
- 第13回メンフィスではカルガモの親子がクイズ会場となったホテルのロビーにある噴水を出発したところでクイズ開始。屋上のカルガモ小屋の前に設けられたゴールラインを通過したところで終了。エレベーターが屋上に到着し、挑戦者の前にカルガモが姿を見せ始めたところで1問正解2ポイントに切り替えられた。
- 第14回ソルトレークでは大陸鉄道を走る貨物列車を使用しての「空席待ち列車タイムショック」。解答席は3つで、各列の先頭者にのみ出題。正解の場合は他の2人、不正解の場合は解答者自身、誰も答えられなかった場合は3人全員が列の最後尾に下がる。列車の先頭部分が"スタート"地点を通過したところでクイズ開始。最後尾が"スタート"地点を通過したところで終了。"特別ルール"として、3ポイントを獲得するとクイズ終了を待たずに途中で勝ち抜けることができた。
- "今世紀最後"テキサスでは牛の群れが挑戦者の前に姿を現したところでクイズ開始。牛の群れが挑戦者の目の前を完全に通過し終えたところで終了。
- なお、タイムレース自体が初めて行われたのは、後述の『#史上最大の敗者復活戦|史上最大の敗者復活戦』である。
[編集] 大声クイズ
- 一問一答クイズであるが、解答権を得る為に、早押しボタンを押す代わりにマイクに向かって大声を叫び、一番先に一定音量をマークした挑戦者が解答権を獲得できる方式。旅行の途上で名付けられたニックネームや挑戦者にちなんだフレーズが、大声を叫ぶ言葉として司会の福留・福澤より与えられた。初登場は第8回リノ、第9回のヨセミテで初めて声量メーターが導入、その後第16回のレイクパウエルまで毎回実施された。
- 第8回は初登場のため、単純にマイクに大声を叫ぶだけで早押しハットが上がる仕組みであった。後年のように「音量メーター」なる客観的な計測装置は導入されていなかった。そのため比較的小さい声で回答権を得る挑戦者もいれば、大声を叫んでもなかなかハットが上がらないという不運もみうけられた(当時の機械の調子や精度など、また挑戦者がマイクに口を近づけていたかどうかという作戦にもよる、さまざまな要因によるもの)。
- 第9回のヨセミテでは、罰ゲームで“人間警笛”を行った。電車の運転士が紐を引っ張ると大声のフレーズを叫ぶもの。
- 単純に大声の瞬発力の速さを競うだけでなく、司会・福留の絶妙な合いの手も見所であった。例えば第12回では、「負けたくない」「ほんとか!」「負けたくない!」「ほんとか!!」「負けたくない!!!」(ここでようやく解答権取得)と、最後は絶叫までさせてその挑戦者の意欲を引き出した。また挑戦者同士ライバルとして意識させ、フレーズとして「○○帰れー!」と叫ばせる競り合いもあり、番組を盛り上げた。
[編集] 遠すぎた塹壕・トマト戦争クイズ
- 第13回、第14回ツインレークスで行われたクイズ。スタート地点から早押し機までの間に両側から投げつけられるトマトによる攻撃に耐えながら走っていき、早押し機を一番早く押した人に解答権が与えられる。問題を読み始めるときに移動が開始できる。挑戦者は保護メガネと透明な楯でトマト攻撃を防ぐ。お手つき・誤答はトマトの集中攻撃が浴びせられながらスタート地点に戻らなければならない。2ポイント勝ち抜け。
[編集] バックトゥザフューチャークイズ
- 第14回レイクミシガンで行われたクイズ。早押しクイズ2ポイント勝ち抜け、お手つき誤答は1回休み。敗者1名が決定したところで次のチェックポイントへ行こうとするが、勝者も敗者も同じ場所に移動すると、なぜか先ほどのクイズ開始前と同じ時刻になっており、再び全員で早押しクイズを行った(問題は異なるが、答えは同じ。詳細はリンク先参照)。
[編集] リレークイズ
- 早押しとは違い、あらかじめ解答順を決め、その順番どおりに解答していく方式。不正解の場合は次の順番の挑戦者に解答権が移る。解答出来るのは1人につき1個だけが基本だが、時間内なら何個でも解答出来る回もあった。また、解答権が1巡しても正解が出なかった場合、次の問題に移るパターンと、正解が出るまで何巡も繰り返すパターンがあり、後者の場合は途中でヒントが与えられた。番組内では編集のため回答が早めに出ていたが、出場者のHPによれば実際のところ回答権は数周したのちに正解が出た場合も珍しくなかった。
- 初登場は第2回レイクタホ。以後、第6回ロサンゼルス、第7回セントルイス、第8回ラピッドシティ、第9回ドーバーで行われた。
- 第11回リンカーンでは一問多答方式。早押しで解答権を獲得した挑戦者を先頭に、順番に1人1つずつ解答していく方式。
- 第13回チムニーロックでは国道を封鎖し、巨大コンボイを使ってのクイズ。先ず、先頭車両の挑戦者にクイズを出題し、正解すればここで勝ち抜け。不正解の場合は2台目以降の挑戦者に順々に解答権が移る。2台目以降の挑戦者が正解した場合は先頭車両と並び、対決型のリレークイズ(追い着いた側の挑戦者が先に解答)。正解した方が勝ち抜けとなり、残った挑戦者は列の先頭に入り、全体へのリレークイズを再開。挑戦者は6名で、失格は3号車だった。
- このクイズ形式は三択問題と並んで、どちらかといえばクイズプレーヤーの苦手とする形式であった。予習が出来ない内容をクイズにしているからである。第8回の先祖を当てるクイズ、ゲストの考え、など単なる知識だけで対応できない点に挑戦者個人の格闘振りを見ることができた。
[編集] 双子神経衰弱クイズ
- クイズ開始前にゲストとして複数組の双子(中には三つ子もいた)を紹介。彼らはその後、用意されたパネルの裏に隠れる。
- 初登場は第6回ニューオリンズ。以後、第10回オーランドまで毎回行われた。第10回では双子のみではなく親子も参加して行われた。
- クイズ形式は早押し。1問正解したところで、"双子神経衰弱"に挑戦。ゲストを2人(三つ子の場合は3人)を指名し、双子(または三つ子)が見事に揃えば勝ち抜け。但し、第6回では双子"2組"を揃えなければ勝ち抜けられず(三つ子ならば"1組"で勝ち抜け)、また、第10回では早押し"2問正解"しなければ神経衰弱に挑戦することができなかった。
- また12・13・16回では子供が登場し、母親を当てる「私がママよクイズ」、15回では本人が登場し、若かりし頃の写真を当てる「クイズあの時君は若かった」という、進化版と考えられるクイズが登場した。
[編集] マラソンクイズ
- その名の通り挑戦者たちが走りながら早押しクイズを行う方式。早押しボタンは走行しているトレーラー(第14回のオレゴン街道は幌馬車)後方に付いている。
- 初登場は第8回のインディアナポリス。この時は「ジョギングクイズ」という名前だった。
- 現在の呼び名になったのは第9回のニューヨークから。ニューヨークでは、マンハッタンの五番街を完全封鎖して敢行。セントラルパークからエンパイヤステートビルの通りまでをマラソンしながらクイズを行った。
- 第10回モニュメントバレーでは"空席待ち"形式で行われた。挑戦者15名に対し、早押し機は3台。各列の先頭者にのみ出題された。正解時は他の2人が、お手つき・誤答時は本人が列の最後尾に下がる。2問正解で勝ち抜け。
- 第12回サンフランシスコでは複合的にクイズが展開。「知力組」=荷台に座って早押しで3ポイント勝ち抜け。荷台に座れるのは5人まで。「体力組」マラソンで走っている挑戦者は1ポイントで勝ち抜け。早押しにつけるには5人まで。どちらの席にもつけない人は空席待ち(荷台、マラソンどちらで空席待ちをしてもよい)途中トレードタイムがあり、空席待ちの挑戦者は「知力組(荷台)」と「体力組(マラソン)」のどちらで空席を待つか自由にトレードできた。ちなみにクイズ開始時点で「知力」を選ぶか「体力」を選ぶかの優先順位は別のクイズで行われた。
- 第14回オレゴン街道では4人1組の団体戦として行われた。(このクイズの詳細は「一問多答・団体戦クイズ」も参照のこと)
[編集] 激戦! 通せんぼクイズ
- 第4回で初登場。以来、準決勝の定番クイズとして定着するようになる。始めに早押しクイズで一定のポイントを獲得したところで"通過クイズ"の挑戦権を獲得。この"通過クイズ"は1問限定で出題され、正解すればここで決勝進出決定。不正解もしくは"通せんぼ"された場合はポイントが0となり、再び通常の早押しクイズに戻る。
- 第4回ではこの"通過クイズ"は他の挑戦者に解答権はなかった。このため、他の挑戦者は不正解を願う以外になかった。
- 続く第5回からは“通せんぼクイズ”に改められ、ルールも一部変更となった。早押しクイズ3ポイント獲得で"通過クイズ"挑戦は前回と変わらず(出題する問題は、複数の用意された問題用紙が入った封筒から"通過クイズ"挑戦者が選択する)。しかし、ここでの"通過クイズ"は他の挑戦者にも解答権が与えられる。即ち、他の挑戦者は"通過クイズ"挑戦者に対し"通せんぼ"を仕掛ける形となる。もし、"通過クイズ"を他の挑戦者が正解した場合、"通過クイズ"挑戦者のポイントは0となり、通常の早押しクイズに逆戻りとなる。また、"通過クイズ"挑戦者自らがお手つき・誤答をした場合も「0ポイント→通常早押しクイズ逆戻り」となる。他の挑戦者がお手つき・誤答をした場合は、もう1問出題される。
- この第5回ノックスビルで早速、激戦が展開された。その後も6・8・10(天国ルートのみ)・12~16回、"今世紀最後"で実施されたが、中でも第13回のボルティモアでは、通過席進出→阻止が繰り返され(全員合わせて20回以上通過席についたという)、ウルトラクイズ史上最大と言われる大激戦が繰り広げられた。この回の優勝者である長戸勇人の著書によると、用意した問題(150問以上)が底を尽き、日本から新しい問題を送ってもらうため1時間ほど休憩を入れたそうで、「もしあと50問ほどやって決まらなかったら4人ともニューヨーク行き」だったという(この場面はテレビ放映では収録されていない)。この第13回は当初19:30~21:00(90分)×5週の放映予定だったが、この激戦を伝えるため最終第5週は19:00~21:00の120分放映に急遽切り替えられたほどである。司会の福留は「今まで13回の歴史の中で最も素晴らしい闘い」と賞賛の言葉を贈った。ちなみにこの年決勝まで行った長戸勇人は8回、永田喜彰は3回通過席に立った(テレビで放送された回数)。
- 第7回の準決勝ボストンではビンゴ形式を採り入れた(この回の途中、バンクーバーで急病のための脱落者が1名出たため準決勝に残ったのが3名となったこと、事前のチェックポイントで予定していたビンゴクイズが悪天候でできず、その機材を流用したこと、などの事情もあり変則方式となったと思われる)。先ず、各挑戦者は5マス×5マスのパネルに1~50までの好きな数字を埋め込む。早押しクイズに正解すると、数字を1つ指定し、引っ繰り返すことができる。縦・横・斜めのいずれか1列(5マス)全てが引っ繰り返ったところで"通過クイズ"挑戦権を獲得。なお、他の挑戦者の指定した数字が自らのパネルにあった場合、それを引っ繰り返すことが可能。このため、極端な場合、自分は一問も答えずに"通過クイズ"挑戦権を得ることもできていたのである。
- 第11回バッドランド(第7チェックポイント)ではこの形式のクイズが行われた(名称は「国境越え一足飛びクイズ」)。早押し2ポイント獲得で"通過クイズ"に挑戦。正解すると、次チェックポイント(リンカーン)が免除され、一足先にメキシコへ行くことができた。なお、次チェックポイント免除者は2人だけで、残りの勝者は2ポイント獲得でリンカーン行き。
- "今世紀最後"ではニューヨーク入りする前に挑戦者全員にアイマスクを付けさせ、このままの状態でクイズを行った。目隠しされているので、"通過クイズ"専用の解答席はなく、"通過クイズ"挑戦時はその場に立つという形式であった。このときはクイズの前から罰ゲームの音楽が流れ、ウルトラクイズ史上初「クイズの前から罰ゲーム」と言って視聴者を驚かせた。勝ち抜けた時点でアイマスクを外すことを許された。一方、敗者は罰ゲームとしてニューヨークの景色を見ることなく、アイマスクを付けたまま帰国の途に就かせられた(ニューヨークの空港から離陸して、約1時間後にようやくアイマスクを外すことができた。勿論、敗者の視界の先にはもうニューヨークの景色はなかった)。
- 第9回・第13回では準決勝終了後、敗者2名には「第3位決定戦」が行われることがある。第9回のドーバー海峡横断で誤答機に乗った2人に800問ペーパークイズを行ったり、一問多答クイズを行った。これは言うまでもなく単なる罰ゲームであり、ペーパークイズはそもそも採点されていない。もちろん普通の罰ゲームもある。(第6回ではリンカーン記念館でウルトラ音頭を踊る・第8回ではジョー・フレージャーとスパーリング・12回では二人三脚をし、ジャンケンで勝った人が自分の進行方向へ進む。・15回では鉄人ルー・テーズとプロレス無制限1本勝負・14回ではロケバス洗車、16回では馬のいない馬車を引っ張る、13回では第3位決定戦の一問多答クイズで使ったレンガを持ち帰る、など)
[編集] 封鎖クイズ
- 第3回準決勝で行われる。ルールは早押しクイズを行い正解した人は誰か1人を指名し、された人は1問休み。不正解は当然本人が1問休み。強者不利なのは否めなかった。
- 第15回のドミニカ共和国ではクリストファー・コロンブスに因んで「新大陸獲得クイズ」という名称だったが、更にルールがシビアになる。何回かのラウンド制で行い1ラウンドで1人勝ち抜け、早押しクイズで正解した人は誰か1人を指名する。された人はそのラウンドで答えることは出来なくなる。不正解は1問休み。そうやって解答者を1人ずつ減らしていき、最後に残った人が勝ち抜けと言うルール。知力より駆け引きが重要なカギを握るが、当然の様に前評判が高かった2人が全員に狙い撃ちされ封鎖され続けてしまう。最終的に、機内1位の大石禎と2位の能勢一幸がラスト抜けを争う構図が出来上がった。大石不正解1問休み後の次の問題に能勢が答えてラスト抜け、そのままの勢いで能勢は第15代チャンピオンになる。
[編集] 決勝戦
- ニューヨーク(第9回はパリ)で行われた決勝戦は第1回から第16回まで一貫して、オーソドックスな早押しクイズが行われた(お手つき・誤答は-1ポイント)。10ポイント先取者がその年の優勝者(クイズ王)となった。
- 各回とも決勝戦まで勝ち残れたのはたったの2人(第11回のみ3人。この時の準決勝は第1回優勝者松尾清三との1対1の対決クイズが行われ、4人中3人が松尾に勝利したため)。
- 決勝に勝ち残った挑戦者はスーツ(男性はネクタイも着用)姿で決勝戦に臨むのが慣例化していたが、ドレスにダウンジャケットを羽織る(第4回:唯一の女性同士の決勝戦)、紋付袴(第12・16回)、パジャマ(第13回:ジャンケンのげん担ぎ)、会社の制服(第14回)姿で臨んだ挑戦者もいた。
- 決勝戦に進んだ挑戦者の紹介は、ヘリコプターに乗って行う。決勝進出者も決勝の地の上空をヘリコプターで飛んでいるが、第14回はセスナ機、"今世紀最後"は水上スキーでの登場となっていた。
- "今世紀最後"の決勝戦は番組初の衛星生中継として西インド諸島のサン・サルバトル島での開催。クイズ形式も視聴者の意表を突く形となり、これまでの早押しではなく「突撃○×泥んこクイズ」が行われた。この時は両挑戦者に5問ずつが出題され、正解数の多い方が優勝というルールであった(正解数が同じ場合は6問目以降サドンデス)。ちなみに、勝ち上がった挑戦者2人はスーツではなく、Tシャツ等のラフな姿。
- 【歴代決勝地】
- クイズ終了後、表彰式が行われ、優勝者には番組の審査委員長から優勝旗が、その年の"ミス・ニューヨーク"から花束を贈られた。さらに、特大のグラスに注がれたシャンパンを飲み干すという特権が与えられた(優勝者が下戸の場合や体調が悪かった場合には、シャンパンの代わりにサイダーが注がれていたというが、特に番組内でそれに関する言及は無かった。第15回では放送時間の都合からかカットされた)。ちなみに敗者(準優勝者)はクイズ終了後、番組放映上では司会者から労いの言葉をかけられることもなく、コメントをする機会もないなど("今世紀最後"では準優勝者コメントあり)、最後の敗者としての表情を映し出されていた。決勝については敗者には罰ゲームが無いものの、長い道のりを戦ってきた最後の決勝で敗れるということが最も辛い罰ゲームとみなすことができた。
- 表彰式終了後、優勝賞品を受け取るべく賞品地へ向けて出発。そこで優勝賞品を受け取っていた("今世紀最後"では生放送のため決勝地においてその場で受け取っていた。また、第15回の優勝者である能勢一幸の著書によると優勝者が優勝賞品を受け取っている間、準優勝者は例年ニューヨークで自由行動となっていたが、"今世紀最後"では同様の理由で優勝商品受け取りを眺めていた)。
[編集] ルート
総ての大会に於いて、ニューヨークでクイズが行われている。ニューヨークで決勝戦が実施されなかった第9回と"今世紀最後"でも、チェックポイントとしてニューヨークは重要な位置に置かれた。
- 第1回(参加404人) - 後楽園球場(80人通過) → 羽田空港(40人通過) → 機内(30人通過) → グアム(20人通過) → ハワイ(10人通過) → サンディエゴ(6人通過) → フェニックス(5人通過) → ダラス(4人通過) → ニューオリンズ(3人通過) → アトランタ(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第2回(参加700人) - 後楽園球場(100人通過) → 成田国際空港|成田空港(50人通過) → 機内(40人通過) → サイパン(20人通過) → ハワイ(10人通過) → サンフランシスコ(9人通過) → レイクタホ(8人通過) → リノ(7人通過) → デンバー(6人通過) → シカゴ(5人通過) → ナイアガラ(4人通過) → ボストン(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第3回(参加1362人) - 後楽園球場(100人通過) → 成田空港(50人通過) → 機内(40人通過) → サイパン(20人通過) →ハワイ(10人通過) → ロスアンゼルス(8人通過) → グランド・キャニオン(7人通過) → ツーソン(6人通過) → サンアントニオ(5人通過) → ヒューストン(4人通過) → マイアミ(3人通過) → ワシントンDC(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第4回(参加2707人) -後楽園球場(100人通過) → 成田空港(50人通過+1人復活) → 機内(最下位1人サイパンに置き去り/40人通過) → グアム(20人通過) → ハワイ(10人通過) → サンフランシスコ(9人通過) → ソルトレイクシティ(8人通過) → イエローストーン(7人通過) → コロラドスプリングス(6人通過) → アルバカーキ(5人通過) → ニューオリンズ(4人通過) → プエルトリコ(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第5回(参加6473人) - 後楽園球場(100人通過) → 成田空港(50人通過+5人復活) → 機内(45人通過) → サイパン(20人通過+10人復活) → ハワイ(14人通過) → ホノルル空港(ロサンゼルスで結果発表/13人通過) → ラスベガス(12人通過) → アカプルコ(11人通過) → メキシコシティ・プラサメヒコ(10人通過) → テオティワカン(9人通過) → フェニックス(8人通過) → エルパソ(6人通過+1人復活) → ヒューストン(6人通過) → メンフィス(4人通過) → ノックスビル(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第6回(参加7332人) - 後楽園球場(100人通過) → 成田空港(49人通過+1人復活) → 機内(40人通過) → サイパン(20人通過+帰国直後に4人復活) → アラスカ(12人通過) → ロスアンゼルス(11人通過) → バーストー(10人通過) → モニュメントバレー(8人通過)→ ダラス(7人通過) → ニューオリンズ(6人通過) → ルイビル(5人通過) → ワシントンDC(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第7回(参加10203人) - 後楽園球場(100人通過) → 成田空港(50人通過+1人復活) → 機内(40人通過) → グアム(24人通過) → ハワイ(12人通過) → バンクーバー(11人通過後、1人急病のため帰国) → ジャスパー(9人通過) → ロスアンゼルス(8人通過) → デスバレー(7人通過) → レイクパウエル(6人通過) → セントルイス(5人通過) → ナイアガラ(4人通過) → オルバニー(3人通過) → ボストン(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第8回(参加11048人) - 後楽園球場(100人通過+1人復活) → 成田空港(51人通過+3人復活) → 機内(40人通過) → グアム(25人通過) → グアム2(24人通過) → ハワイ(12人通過) → サンフランシスコ(11人通過) → リノ(10人通過) → フェニックス(9人通過) → ラピッドシティ(8人通過) → ダコタ(6人通過+1人復活) → インディアナポリス(6人通過) → キーウエスト(5人通過) → バハマ(4人通過) → フィラデルフィア(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第9回(参加11754人) - 後楽園球場(100人通過+1人復活) → 成田空港(50人通過+9人復活) → 機内(45人通過) → グアム(30人通過) → ハワイ(15人通過+3人復活) → サンフランシスコ(12人通過+4人復活) → ヨセミテ(14人通過) → ロスアンゼルス(13人通過) → ラスベガス(12人通過) → アルバカーキ(11人通過) → ナッシュビル(10人通過) → オーランド(9人通過) → アナポリス(8人通過) → アトランティックシティ(6人通過+1人復活) → ニューヨーク(6人通過) → ロンドン(5人通過) → ドーバー(4人通過) → ドーバー海峡横断(2人通過) → パリ(優勝者決定)
- 第10回(参加17162人) - 後楽園球場(100人通過+10人復活) → 成田空港(55人通過+15人復活) → 成田☆旅立ち(35人通過、敗者35人は敗者復活戦へ) → 機内(33人通過+10人復活) → グアム(28人通過) → ハワイ(21人通過+1人復活) → シアトル(17人通過) → モハーベ砂漠(16人通過) → ロスアンゼルス(15人通過) → モニュメントバレー(13人通過) → エルパソ(12人通過) → ダラス(11人通過) → アトランタ(10人通過→北米・南米ルートへ5人ずつ) → 【北米】オーランド【南米】ラパス(それぞれ4人ずつ通過) → 【北米】マイアミ【南米】チチカカ湖(それぞれ3人ずつ通過) → 【北米】ナイアガラ【南米】リオデジャネイロ(それぞれ1人ずつ通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第11回(参加18017人) - 後楽園球場(100人通過+4人復活) → 久伊豆神社(103人通過) → 成田空港(52人通過。敗者は名古屋での敗者復活戦に回り、7人復活) → 機内(40人通過。それとは別に、敗者復活者7人も機内でクイズを行い、うち3人通過) → (勝者便40人中成績下位3人と敗者復活者3人による"入れ替え"クイズを行い、うち3人通過) → グアム(28人通過) → ハワイ(21人通過+3人復活) → ロスアンゼルス(12人通過) → パームスプリングス(11人通過) → デビルスタワー(10人通過) → バッドランド(9人通過。うち2人は次チェックポイント免除) → リンカーン(6人通過) → チチェンイッツァ(7人通過) → カンクン(6人通過) → マイアミ(4人通過+1人復活) → ワシントンDC(4人通過) → ニュージャージー(3人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第12回(参加20774人) - 東京ドーム(100人通過) → 成田空港(50人通過+5人復活) → 機内(40人通過) → グアム(20人通過) → バロー(15人通過+3人復活) → アラスカ鉄道〈フェアバンクス→アンカレッジ〉(15人通過) → サンフランシスコ(14人通過) → パシフィカ(13人通過) → ラスベガス(11人通過) → モハーベ砂漠(10人通過) → サンパウロ(9人通過) → イグアス(8人通過) → ブエノスアイレス(7人通過) → フェゴ島(5人通過+1人復活) → ゲインズビル(5人通過) → ワシントンDC(4人通過) → ゲティスバーグ(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第13回(参加24115人) - 東京ドーム(100人通過+4人復活) → 成田空港(52人通過+3人復活) → 機内(40人通過) → グアム(25人通過) → グアム2(24人通過) → ゴールドコースト(18人通過+4人復活) → モーリー(14人通過) → ブルーマウンテン(13人通過) → シドニー(10人通過+1人復活) → クイーンズタウン(10人通過) → ショットオーバー(9人通過) → ロサンゼルス(7人通過) → ツインレークス(6人通過) → チムニーロック(5人通過) → メンフィス(4人通過) → ボルティモア(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第14回(参加26735人) - 東京ドーム(100人通過+1人復活) → 成田空港(50人通過+5人復活) → 機内(40人通過) → グアム(24人通過) → タヒチ(12人通過+5人復活) → タヒチ2(16人通過) → オレゴン街道(12人通過+1人復活) → グランドテートン(12人通過) → ソルトレーク(10人通過) → アーチーズ(8人通過) → ツインレークス(7人通過) → レバノン(6人通過) → エリー(5人通過) → レイクミシガン(4人通過) → キティホーク(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第15回(参加28523人) - 東京ドーム(130人通過) → 成田空港(65人通過) → 機内(40人通過) → グアム(26人通過) → ハワイ(13人通過) → ロサンゼルス(12人通過) → モハーベ砂漠(11人通過) → サンシティ(10人通過) → エルパソ(9人通過) → ジャクソン(8人通過) → ニューオリンズ(7人通過) → ドミニカ共和国(6人通過) → オーランド(5人通過) → オーランド2(4人通過) → ヨークタウン(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- 第16回(参加26121人) - 東京ドーム(100人通過) → 成田空港(50人通過+5人復活) → 機内(40人通過) → グアム(24人通過) → ハワイ(12人通過) →ハワイ2(11人通過) → サンフランシスコ(9人通過) → キャメロンパーク(8人通過) → レイクパウエル(7人通過) → サンタフェ(5人通過+1人復活) → アトランタ(5人通過) → フロリダキーズ(4人通過) → フィラデルフィア(2人通過) → ニューヨーク(優勝者決定)
- "今世紀最後"(参加50453人) - 東京ドーム(100人通過+28人復活) → 成田空港(70人通過。うち1人は一足先にアメリカ本土上陸) → 機内(42人通過) → グアム(21人通過) → グアム2(20人通過) → ハワイ(10人通過) → (一足先にアメリカ本土上陸した挑戦者に対し"合流クイズ"出題→正解し、合流決定。挑戦者数11人に) → サンフランシスコ(8人通過) → レイクパウエル(7人通過) → シルバートン(6人通過) → デュランゴ(4人通過+1人復活) → テキサス(4人通過) → ニューヨーク(2人通過) → 西インド諸島・サン・サルバドル島(優勝者決定)
[編集] 各回の挑戦者数・視聴率・特徴
回数(年) | 参加者 | 視聴率 | その他 |
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第1回大会(1977年) | 404名 | 約25% | 日本テレビ開局25年記念番組、初開催。 |
第2回大会(1978年) | 700名 | 23.9% | 新東京国際空港(現:成田国際空港)開港 |
第3回大会(1979年) | 1,362名 | 23.9% | ドボンクイズ、バラマキクイズ初登場 テーマ曲がこの回から固定 |
第4回大会(1980年) | 2,707名 | 29.9% | ○×ドロンコ初登場 唯一の女性チャンピオン(準決勝以降挑戦者が全員女性) |
第5回大会(1981年) | 6,473名 | 27.2% | 第1問を球場前で発表 メキシコ初訪問 奇襲クイズ・通せんぼクイズ初登場 |
第6回大会(1982年) | 7,332名 | 27.2% | アラスカ初上陸 双子神経衰弱クイズ初登場 ○×ドロンコ無し |
第7回大会(1983年) | 10,203名 | 34.5% | サポートアナ初同行 史上最大の敗者復活戦王者、予選免除されるもグアム敗退 カナダ初上陸 急病で脱落者発生 最高視聴率 |
第8回大会(1984年) | 11,048名 | 23.1% | 初の全都道府県からの参加 大声クイズ・ジョギング(マラソン)クイズ初登場 海底クイズでバハマ初入国 |
第9回大会(1985年) | 11,751名 | 22.2% | ヨーロッパ初上陸、パリ決戦 団体クイズ初登場 |
第10回大会(1986年) | 17,162名 | 26.8% | ジャンケン→腕相撲 成田で第1CP 南北分裂ルート、南北王者ニューヨークで激突 ※放送ライブラリーで視聴可能 |
第11回大会(1987年) | 18,017名 | 20.4% | 福留引退を宣言するも、徳光と高島忠夫の説得で宣言撤回 久伊豆(クイズ)神社で第2次予選 米墨国境一足飛び タイムショック初登場、唯一の3人決勝 |
第12回大会(1988年) | 20,774名 | 17.9% | 定年45→50歳に延長 東京ドームで初開催 アラスカからフェゴ島まで南北アメリカ大縦断 |
第13回大会(1989年) | 24,115名 | 16.6% | 第1問新聞発表 オーストラリア・ニュージーランド初上陸 トマト戦争初登場 |
第14回大会(1990年) | 26,735名 | 15.0% | 第1問早朝TV発表 台風により○×ドロンコ中止 タヒチ上陸 アメリカ本土をバスだけで横断 バックトゥザフューチャークイズ登場 |
第15回大会(1991年) | 28,523名 | 18.1% | 厳しいサバイバル重視の大会 福留引退、福澤登場 一次予選通過者130名に拡大、敗者復活廃止 ジャンケン一本勝負 ドミニカ共和国で涙の新大陸獲得クイズ |
第16回大会(1992年) | 26,121名 | 14.6% | レギュラー開催最後 ラサール石井参加、東京ドーム敗退 敗者復活が復活(故ジャイアント馬場のビデオメッセージ) 台風により○×ドロンコ中止 |
今世紀最後(1998年) | 50,453名 | 21.2% | 6年ぶりの復活 福留再登板 年齢制限撤廃 ピカイチ芸予選 相次ぐ新機軸形式クイズ NYで準決勝 生放送○×ドロンコ決勝 ※放送ライブラリーで視聴可能 |
なお1986年6月には、第10回の開催を前に、それまでの歩みを振り返る特別番組「史上最大の傑作選 必勝! 虎の巻」が同じ「木曜スペシャル」枠で放送された。
[編集] 歴代優勝者/優勝賞品
- 第1回/松尾清三(京都)/ラスベガスの土地1エーカー(砂漠のど真ん中)。
- ダラスでは、自身考案のテーマソングを歌ったユニークな人。
- 第2回/北川宣浩(東京)/ニューヨークの最高級ホテル宿泊権(家族2人を呼んで1泊)。
- クイズ番組優勝経験豊富者であったが、優勝の喜びの余り福留と相撲を取るなど大ハシャギしていた。1人目の敗者復活(サイパン)経験者チャンピオン。
- 第3回/宗田利八郎(福島/愛称"ブッチャー")/競走馬一頭(数え年で8歳。人間でいうと45歳程度)。
- クイズより飲酒豪遊がモットー、遊び疲れてクイズ収録中に寝てしまった逸話あり。
- 第4回/山口由美(千葉/愛称"ハチマキ娘"/当時の姓は"上田")/1人乗り小型飛行機(自分で組み立てなければならない)。
- 唯一の女性クイズ王だが、これまでクイズ番組の出演経験は無くクイズ初挑戦での優勝。
- 第5回/真木法男(東京/愛称"メガネカマキリ")/テキサスの油田採掘権(早速出て25万円もらえたとか)。
- 常に福留から、虚弱ぶりをからかわれていた。2人目の敗者復活(サイパン)経験者チャンピオン。
- 第6回/高橋直樹(静岡/愛称"トドさん"体重100キロの巨漢)/世界一周の旅(ローマ→アテネ→カイロ→バンコク→ホンコン、1週間で回った超駆け足の旅だった)。
- 結婚式が未だだった為スタジオで式を挙げる。"今世紀最後"では娘と共に親子で参加。
- 第7回/横田尚(東京/新宿駅前の旅館の若旦那)/カナダ産ログハウス(自分で丸太を切って組み立てなければならない)。※カナダ西部のカムループスで贈呈
- クイズ番組出演経験全くなしで、初のクイズ挑戦での優勝。以後、ウルトラクイズ以外のクイズ番組の出演はない。3人目の敗者復活(グアム)経験者チャンピオン。
- 第8回/石橋史行(東京)/高級クラシックカー(自分で組み立てなければならない)。※マイアミで贈呈
- 歴代で、最も危なげなく各チェックポイントを勝ち抜けていったチャンピオン。
- 第9回/金子孝雄(埼玉/愛称"林真理子")/1人乗り小型潜水艦("お母様ヤッタ号"と命名)「ウェット型」と言う形式で潜水艦内部に水が入ってくるため乗員はアクアラング等が必要。※サイパンで贈呈
- 総集編ビデオ「アメリカ横断ウルトラクイズのすべて」の歴代優勝者紹介で、写真横に出てくる名前が孝夫と間違えられていた。福留曰く「最弱のクイズ王」だが、クイズ研究会出身。4人目の敗者復活(アトランティックシティ)経験者チャンピオン。
- 第10回/森田敬和(東京)/熱気球(3人乗りの本格派・中古品)。※アルバカーキで贈呈
- ボリビア滞在時、38度の高熱と腹痛で苦しんだ。福留から「最強のチャンピオン」と呼ばれる。5人目の敗者復活(ブーブーゲート)経験者チャンピオン。
- 第11回/稲川良夫(岐阜/名古屋で敗者復活)/カナダ東部のノバスコシアに浮かぶ"島"(満潮時には畳一畳分を残して水没する)。「パチンコ島」と命名。
- 立命館クイズ研究会設立者で、初代会長。6人目の敗者復活(名古屋)経験者チャンピオン。
- 第12回/瀬間康仁(京都)/バイオマリンスポーツセット一式(馬1頭と水上スキー)。※フロリダ州のウィンターヘブンで贈呈
- 就職活動を捨てての挑戦。立命館クイズ研究会出身。
- 第13回/長戸勇人(京都)/冷凍人間保存の会員権。※オークランドで贈呈
- 立命館クイズ研究会出身。彼の優勝で立命館クイズ研究会の3連覇が実現した。7人目の敗者復活(グアム)経験者チャンピオン。この決勝はビデオ「アメリカ横断ウルトラクイズのすべて」で「史上最強の決勝」と紹介されていて、初の同クイズ研究会による決勝戦。その後、決勝の対戦相手、永田喜彰はFNSで第2回、第4回の優勝に輝いている。彼がこのとき優勝していたら日本テレビ、FNSの2番組のクイズ制覇をしているところだった。後に長戸は『ワールド☆レコーズ』のベルトコンベアから流れてくる30個の品をすべて記憶するという企画ですべて記憶し、ギネス記録を持った。その時の紹介文は「一度見たものは忘れない。孤高のクイズ王」。今世紀最後では家族そろって(妻と子供2人)出場
- 第14回/佐藤光邦(東京/愛称"田園調布の黄門様")/ラスベガスのカジノのオーナー権"牛糞ビンゴ"。※ネバダ州ではなく、ニューメキシコ州ラスベガス村で贈呈
- クイズ番組参加も海外旅行経験も全くない完全一般人の優勝者。
- 第15回/能勢一幸(埼玉/優勝経験のないクイズ番組常連)/プライベート温泉(熱い源泉と川の水を自分で混ぜ合わせた)。近くに鳥がいたので「かもの湯」と命名。※アメリカンロッキーで贈呈
- 番組内で唯一愛称がなかった(一応"クイズおたく"と称されてはいたが、本人は嫌がっていた)。クイズ研究会出身。相手の松原は遅生まれで能勢は早生まれ(1月1日)で年齢は1つ違いだが能勢は社会人、松原は3年生。初めての同大学出身による決勝戦であり、2度目の同クイズ研究会による決勝戦でもある。後に能勢は『クイズ$ミリオネア』で一千万円を獲得している。
- 第16回/田中健一(東京/愛称"ミニラ")/ワイン用ブドウ畑(1列のみだが、それでもビン500本分のブドウを収穫できる)。※スノコルミーで贈呈
- 東京大学クイズ研究会出身。現在、クイズ作家。
- "今世紀最後"/小川圭太(京都)/高級ハウスボート(すぐさま爆破して魚礁に)。※マイアミ沖からの中継のみの贈呈
- 4人目の立命館クイズ研究会出身チャンピオン。後に会長職に就くも、常にウルトラクイズチャンピオンの肩書きの重圧にさらされていた。
優勝賞品の多くはほとんど(あるいは全く)役に立たないものであり、役に立つものであっても税金などの経費負担が重く結局手放さなければならない場合が殆ど(初年度のみ日本テレビが諸経費を負担。第16回のブドウ畑など)だが、中には第11回の稲川が獲得した島のように、その後長期に渡って保有している例もある。第15回優勝賞品の温泉は別に珍しいとか特別とかそういったものではなく地元の人も自由に作って入っている。
[編集] 出身大学
- 立命館大学 - 第1回・松尾、第11回・稲川、第12回・瀬間、第13回・長戸、"今世紀最後"・小川(うち瀬間、長戸、小川は優勝当時在学中)。なお、稲川、瀬間、長戸、小川は立命館大学クイズソサエティー(クイズ研究会、略称「RUQS」)出身であり、全員が会長も務めた(稲川が創立者)。
- 東京都立大学(現・首都大学東京) - 第2回・北川
- 早稲田大学 - 第3回・宗田
- 中央大学 - 第5回・真木(優勝当時在学中)
- 日本大学 - 第7回・横田
- 麻布大学 - 第8回・石橋(優勝当時在学中)
- 埼玉大学 - 第9回・金子(優勝当時在学中)。クイズ研究会出身。
- 拓殖大学 - 第10回・森田
- 成蹊大学 - 第14回・佐藤
- 一橋大学 - 第15回・能勢。クイズ研究会出身。
- 東京大学 - 第16回・田中(優勝当時在学中)。クイズ研究会出身。
[編集] 敗者復活同士の決勝戦
ウルトラクイズには過去4回敗者復活で勝ち上がった者同士の決勝が行われているが、この敗者復活率の多さがウルトラクイズの醍醐味とも言える。
- 第7回
- チャンピオンの横田尚と対戦相手の渡辺晶夫は共にグアムで泥んこになったものの、ドロレスカルタクイズで敗者復活を果たした者同士。
- 第9回
- チャンピオンの金子孝雄は成田空港のジャンケンで敗れるも、空席待ちクイズで敗者復活。また、アトランティックシティでは敗者決定戦に回ったがスロット対決で勝利した。一方、対戦相手の長谷川威夫はグアムで泥んこ、ハワイでドボンと連続で敗れたが、ともに敗者復活。
- 第11回
- チャンピオンの稲川良夫は成田空港のジャンケンで敗れるも、名古屋のパチンコ対決で敗者復活。対戦相手の高橋充成はハワイの綱引きで敗れたが、新婚カップル合わせクイズで敗者復活。山賀恵美子はグアムで泥んこになったものの、ドロンコリンボー早押しクイズで敗者復活。
- 第13回
- チャンピオンの長戸勇人はグアムで泥んこになったものの、逆ドロンコクイズで敗者復活。一方、対戦相手の永田喜彰はシドニーで敗れたが、特別ゲストのMr.マリックによるサイキックイズで敗者復活。大声クイズでの、彼のフレーズ「マリック様さま」はここから来ている。
[編集] メインテーマ曲と番組で流されたBGM
[編集] メインテーマ曲
【第1回】
- 「THEY'RE OFF!」(ヘンリー・マンシーニ楽団/映画「THE GREAT RACE」にて使用の曲)
【第2回】
- 「Champ Change」(クインシー・ジョーンズ)
【第3回~第15回・"今世紀最後"】
- 「Theme From Star Trek(スタートレックのテーマ)」(トランペット奏者メイナード・ファーガソン)
- 当番組では、最初のファンファーレの部分としてMFSBの「Zach's Fanfare #2(ザックのファンファーレ#2)」が、曲の最後の部分だけ同じメイナード・ファーガソンによる「The Cheshire Cat Walk(チシャ猫のウォーク)」がこの曲に繋げられている。一般的に認知されている"ウルトラクイズの曲"とは、この曲である。
【第16回】
- 「Ultra Quiz Main Theme (Theme From Star Trek)」
- 第3回~第15回と"今世紀最後"で使用されたメインテーマを、独自でアレンジしたリニューアルバージョン。後述の「オリジナル・サウンドトラック」にも収録されているが、以前の第3回~第15回&"今世紀最後"バージョンの方が人気が高い。
[編集] その他のBGM
【提供スポンサー紹介BGM】
- 「Clef Club No.2」(Randy Newman作曲・映画「ラグタイム(Ragtime)」より)
- 同曲は、東京ディズニーランドの中にあるワールドバザールのBGMにも使用されている。
【ルート紹介BGM(第1回~第12回・"今世紀最後")】
- 「Magic Bird Of Fire」(The Salsoul Orchestra)
- 曲の最後は編集されて短いコーダがついている。
【第1次予選○×クイズの考慮時間(45秒・30秒)BGM】
- 「Fantasy 」(James Lastのアルバム「Seduction」より)
【機内ペーパークイズBGM】
- 「ORGASMACHINE」(Oseのアルバム「ADONIA」より)
【勝ち抜け時のファンファーレ】
- 「Mardi Gras」(Grofé作曲の『Mississippi Suite』より)
- 「Huckleberry Finn」(同)
【決勝戦・決勝進出者がヘリコプターで決勝地上空を飛ぶ際のBGM】
- 「Old James Bonded Bourbon(ジェイムズ爺さんのバーボン)」(映画「グレート・スタントマン(原題:Hooper)」より)
[編集] 史上最大の敗者復活戦
- 1982年12月31日に日本テレビ開局30周年記念特番として、『ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦』という特別企画が行われた。これは、これまで後楽園球場に行かなければ予選に出場できなかったものを、全国各地で予選を実施し、その地域に密着したユニークなクイズを出題しようという試みだった。
- 北海道地区予選の第1問は、2カ所のサークルにいる幼稚園児のどちらが人数が多いかというものだった(理論的には数えればわかる)。
- 東北地区予選では、○か×かによって別の船に乗るという、ウルトラクイズ史上初の企画が行われた。
- 関東・関西地区予選では、史上初の2カ所同時中継による○×クイズ(勝ち抜け人数も、両地区の合計で決まっており、「関東○名、関西○名」という定員ではない)、史上初のナイター、史上初の、第1問が2つ出て4カ所のスタンドに分かれるという企画が行われた。
- 四国地区予選では、第1問が○か×かで別の小学校のグラウンドに向かい、正解が発表されないまま両会場で2問目以降のクイズが行われた。そして両会場6名ずつが決定した時点で初めて第1問の正解が発表された。
- 九州地区予選では、温泉につかりながら頭につけたボタンを押すという早押しクイズが行われた。それまでの、解答席に座るという概念を覆す画期的な企画だった。
- 24642名が挑戦した各地の予選通過者82名が全国大会に進出し、高尾山でペーパークイズなど様々なクイズに挑戦。通過者8名が日本テレビのスタジオで過去の優勝者と直接対決するクイズに挑戦し、そこで勝ち上がった4名が成田空港で行われた生放送での7分間早押しクイズ(準決勝)、さらに勝ち上がった2名がジャンケン7本勝負(決勝、家族も参加)にコマを進めた。
- 高尾山でのペーパークイズの結果発表は、名前を呼ばれた挑戦者が前に出るように言われ、最後に僧侶が振り向くとそれは徳光アナで「以上が敗者です」と発表する形式だった(これが史上初のどんでん返しであり、後述の『高校生クイズ』に継承された)。
- 優勝者は北海道の主婦、佐藤麻利子だった。優勝者には家族そろってニューヨーク旅行に招待すると共に、翌1983年の第7回大会のシード権(国内予選と機内ペーパークイズの免除)を獲得できるというものだった。また、この大会では準優勝者の門田雅志(後に「第7回FNSクイズ王」で優勝)にも賞品が出た。
- 佐藤は第7回大会で一足先にグアムまで進んでいたが、400問ペーパークイズを最下位で通過した者との○×クイズが行われあえなく敗退。結局ペーパークイズ失格者と共に帰国した。
- この企画が好評を博し、出場資格がなかった高校生達を対象として、翌1983年に『ウルトラスペシャル全国高等学校クイズ選手権』(高校生クイズ)の第1回大会を実施するきっかけを作った。この番組でも、関東・関西地区同時予選やどんでん返しなどのアイデアが引き継がれた。全国高等学校クイズ選手権は、当初、夏・冬の年2回に渡って行われたが、1986年以降夏のみの開催となり、ウルトラクイズが終了した現在も続いている。
[編集] ラジオ版
ローカル放送であったためにあまり知られていないが、ウルトラクイズは1983年3月に一度、ラジオでも制作された。青森県の青森放送が開局30周年記念番組として制作、同局のみで放送された。当初日本テレビは、番組タイトルを含めて協力を渋ったとされているが、最終的には実験として制作に全面的に協力、問題の提供やウルトラハットなどの機材も貸し出し、司会も福留功男が務めた。番組ディレクターは当時青森放送ラジオ局制作部副部長だった伊奈かっぺいこと佐藤元伸が担当。地元にちなんだ問題作成や台本づくりなど放送作家的な仕事もこなした。
収録は青森市の青森県営体育館(現在は取り壊され、別の施設になっている)で行われた。第1次予選は4回に分けて行われ、のべ3650人が参加した。優勝賞品は(アメリカ)西海岸旅行であったが、青森県内では西海岸と言えば県西部の日本海岸を指すため、県内旅行だと思っていた参加者も少なくなかったという。
[編集] 関連書籍
- 福留功男の私情最大! アメリカ横断ウルトラクイズ(福留功男・編著/スポーツライフ社 1984年) ※福留がアナウンサー時代に発刊、第7回大会での出来事も掲載。
- アメリカ横断ウルトラクイズ 1~16(日本テレビ) ※各回の放送内容と全問題を収録。
- 第6巻の2刷以降の帯には、「史上最大の敗者復活戦」の問題が掲載されているようなことが書いてあったが、実際は一問も載っていない。
- アメリカ横断ウルトラクイズ 虎の巻(日本テレビ 1998年) ※"今世紀最後"に際して出版された。過去問題5000問や歴代クイズ王へのインタビュー等。
- ウルトラクイズ伝説(福留功男・編著/日本テレビ 2000年) ※欄外で"今世紀最後"の問題の一部を見ることができる。
- アメリカ横断ウルトラクイズ クイズ王の本(クイズ王の会・編/日本テレビ 1987年)
- アメリカ横断ウルトラクイズ ニューヨークへ行きたいかーッ! データ解析 傾向と対策(日本テレビ 1990年)
- 絶対ニューヨークへ行きた~いッ! アメリカ横断ウルトラクイズ 攻略技術と対策問題(日本テレビ 1991年)
[編集] ゲームソフト
※ソフトによってはANA(全日本空輸)が協力しており、航空機の機体に「ANA」のロゴが入る作品もあるが、ドーム球場は東京ドームではなく「ウルトラドーム」((FC版では「ゲームドーム」)となっている。
- アメリカ横断ウルトラクイズ(PS2/デジキューブ)※以下、2作品は同一内容。
- アメリカ横断ウルトラクイズ(PS/ビクターエンタテインメント)※以下、3作品は同一内容。
- アメリカ横断ウルトラクイズ(SS/ビクターエンタテインメント 1995年10月27日)
- アメリカ横断ウルトラクイズ(SFC/トミー 1992年11月20日)
- アメリカ横断ウルトラクイズ(FC/トミー 1991年11月29日)
- アメリカ横断ウルトラクイズ(GB/トミー 1990年12月23日)
- アメリカ横断ウルトラクイズ2(GB/トミー 1991年12月20日)
- アメリカ横断ウルトラクイズ3(GB/トミー 1992年11月27日)
- アメリカ横断ウルトラクイズ4(GB/トミー 1993年10月29日)
- アメリカ横断ウルトラクイズ(アーケード/タイトー 1983年)
- アメリカ横断ウルトラクイズ(PC:Windows3.1版/富士通パソコンシステムズ)
- アメリカ横断ウルトラクイズ(PC:マッキントッシュ版/富士通パソコンシステムズ)
- アメリカ横断ウルトラクイズ(PC:FM-Towns版/富士通パソコンシステムズ)
- アメリカ横断ウルトラクイズct.2 福澤アナ編(PC:Windows95版/富士通パソコンシステムズ)
- アメリカ横断ウルトラクイズ95Special(1とct.2福澤アナ編のセット。ウルトラクイズ復活記念)(PC:Windows95版/富士通パソコンシステムズ 1998年)
- クイズスクリーンセイバー・アメリカ横断ウルトラクイズ(PC:Windows95版/富士通パソコンシステムズ 1998年)
[編集] サウンドトラック
- 第16回の放送にあわせて発売。リニューアル版テーマ曲(前述の「テーマ曲」の項を参照)と16回のみの放送で使われたオリジナル曲を収録。
[編集] ビデオ
[編集] ボードゲーム・その他
- アメリカ横断ウルトラクイズ(トミー)
- NEW アメリカ横断ウルトラクイズ(同)
- アメリカ横断ウルトラクイズ 91年版(同)
- アメリカ横断ウルトラクイズ Jr.(同)
- アメリカ横断ウルトラクイズ チョコスナック(明治製菓)※箱に○×クイズが書かれており、○と×、正解の方の開け口からしか食べられないというものだった。菓子自体の形も○と×だった。
- アメリカ横断ウルトラクイズ ミニウルトラハット(バンプレスト)
[編集] 番組がもたらした影響
- 1992年の第16回("今世紀最後"と銘打たれた1998年を除く)終了後、10年以上経ても熱狂的ファンからは未だに番組の復活を望む声が上がっている。インターネットの普及した昨今、かつて番組に参加した挑戦者(優勝者を含む)や当時の視聴者がHPを立ち上げ、当時の参加や視聴を記録として残し根強い人気を誇っている。番組が終了したことで「伝説のクイズ番組」と称されることになった。
- この番組からパロディ化されたものは大小合わせて数えきれないほどある。例えば『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(同局系)や『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)でのスペシャル企画「アメリカちょっとだけ横切りウルトラクイズ」、『タモリ倶楽部』(テレビ朝日ほか)の「○○区横断ウルトラクイズ」、『エンドレスナイト』(関西テレビ)の「○○縦断ウルトラ風クイズ」といった番組そのもののパロディから、「ニューヨークへ行きたいか!」の掛け声、クイズの形式、「罰ゲーム」という言葉、どろんこクイズ、ウルトラハットなどのアイデアやセットが、後のテレビ・ラジオ番組で使用されたり、全国各地の大小イベントで○×クイズが「ウルトラクイズ」の名で企画されたりと、『ウルトラクイズ』の存在がクイズ界にとどまることなく国民的な次元で影響を与えているのは言うまでも無いことである。
- また、福岡放送など日本テレビ系列のNNN、NNS各局ではウルトラクイズの亜流ともいうべき大人数参加のクイズ番組が制作、放送されていた。各系列局のアナウンサーやタレントではなく、当時現役司会の福留や福澤が司会を担当するなど、ルールやセット、BGMなどに関しても本家を踏襲したものとなっていた。
- さらに同番組の反響は海外にまで及び、世界各国でも紹介されていた。アメリカに至っては、1981年に20世紀フォックステレビジョンが日本テレビの了解を得て『世界一周ウルトラクイズ』を制作、全米3大ネットワークの一つであるNBCで放映された。ちなみに日本テレビもこの番組の放映権を持っていたが、本来の持ち味である人間ドラマ色が薄かった等の理由で放映されなかった。
- この番組がきっかけで、他局でも『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦』や『史上最強のクイズ王決定戦』などの大型視聴者参加型クイズ番組が生まれた。「クイズ王決定戦」と名づけるあたり、この番組の影響を少なからず受けていることが分かる。(ウルトラクイズで初めてクイズ王と言う称号が出てきた。)
上記「概要」と重複するが、この番組ほど壮大なスケールのクイズ番組は他に存在せず、視聴者に憧れや夢を抱かせたという点で特筆すべきものがある。
[編集] クイズ研究会
- この番組では、回数を重ねるに従って、いわゆる「クイズ研究会」「クイズサークル」の健闘ぶりが目立つようになる。とりわけ早押しクイズにおいて一般の挑戦者より修練を積んだ、大学のクイズ研究会に属する学生もしくはその出身者が後半のチェックポイントまで勝ち残るパターンが第5回から見られ、後半には頻繁に見られるようになった。
- 特に第1次予選の○×クイズにおいては集団を組んで問題の検討・行動をして、彼らの研究成果である「法則」(大半の問題は真偽を知らなくても答えが○もしくは×の二者択一しかありえず、真偽の正面検討を避け出題パターンなどの外部要因から○×解答を導く)といわれるものがあり、これを熟知したクイズ研究会のメンバーは、正解率もその他の一般個人参加者より必然的に高くなった。これにより、結果的に彼らは第1次予選突破者のかなりの数を占めることとなった。また、定員(100名)に近くなるとクイズの検討よりも100名に残るための戦略(多数の集団についていき、安全策をとる)も立て、予選突破を果たすようになった。
- 彼らは主に早押しクイズで目覚しい活躍を示したため一般視聴者からみてアイドル的人気を獲得する一方、一般の挑戦者が不利となる不公平さも指摘された。ウルトラクイズの演出は「人間模様を描き出す」ことにあり、その点では一般挑戦者はその目的に適う存在であった。クイズ研究会(と出身者)がこの番組で活躍することは番組の方向性を変えたとも言うことができる。一部では番組の終了も原因はここにあるといわれている。司会の福留は著書『葬らん!』で「ウルトラクイズには社会人が出てきて喜怒哀楽をみせてほしい」という内容を書いていたが、番組が有名になるにつれ応募者の大半は大学生となり、福留の思惑とは違う方向に進んでいった。
- 1980年代後半のクイズサークルはこのクイズに対策を立てるという明確な意図を持っていたとされている。結果として自由時間を豊富に持つ大学生が大勢参加し、クイズ番組としてのレベルアップには貢献した。その成果は第13回準決勝の壮絶な闘いに見出すことができる。
- 概して彼らはこのウルトラクイズに対して徹底的な対策を立てており、クイズで見事な競り合いを見せる一方、この番組の「人間ドラマを映し出す」という点にはいささか物足りず(クイズ研究会それぞれの個人のキャラクターは立っていても、番組初期の30代40代の挑戦者のみせる人間ドラマとは違うという意味)クイズ研究会が勝ち残った時点で優勝予想がたってしまい(クイズの後半は早押しクイズが多い)番組の興味を削いだ点も指摘できた。
- 現在もクイズ研究会の是非については、マニアの間で議論され続けている。
[編集] エピソード
[編集] 企画段階のエピソード
- 当初の企画は、東名高速道路の開通時に、沿線を移動しながらクイズをやるというものだった。この企画は実現しなかったが、舞台をアメリカに変えることで復活した。
- 同番組が最初に企画された際の仮タイトルは「ジャンボクイズ」だった。しかし、1977年当時「木曜スペシャル」のスポンサーの一社だった全日空は「ジャンボジェット」ことボーイング747を保有していなかったため(しかもライバルの日本航空は既に747を保有していた。全日空が747を導入するのは1980年)、「ライバル会社を連想させる名称は良くない」とのことで「ウルトラクイズ」に名称が変更されたという。
- 初代敗者の味方の徳光の出演と敗者にピコピコハンマーで徳光を叩かせる演出は第1回開催直前に急遽決まった。徳光によれば「日本テレビの代表として、一番露出度が高いお前さんが殴られるしかない」と言われて引き受けたとのことである。
- 第1回開催前の企画段階では敗者へのインタビューは同局の女性アナウンサーが行い、ある男性タレントが敗者にハリセンで叩かれる事になっていた。ところが第1回の第1次予選の直前にその男性タレントが失踪してしまい、企画を変更せざるを得なくなった。予定では男性タレントはTシャツに短パン姿で手足をロープで縛られ、口をタオルで塞がれた状態で叩かれる事になっており、更に敗者にタレントを叩かせる前に叩き方の見本として、女性アナウンサーがタレントをハリセンで叩く演出があったそうである。
- 第15回で司会が福留から福澤に交代した際、企画段階では「福澤1人では荷が重過ぎるのでは」という事で司会を福澤と同局の女性アナウンサーの2人とし、福澤が進行、女性アナウンサーが問題読み上げの形を取る案があった。
- 同番組は1992年の第16回を最後に打ち切られたが、翌1993年に第17回が行われていた場合はアメリカ本土上陸後、カナダ経由でニューヨークを目指すルートを予定していた。
[編集] ロケ・旅行中のエピソード
- 挑戦者は第1次予選を通過すると別室に集められ、通称「勝者弁当」を支給されてツアーの説明を受ける。その際クイズルートの概要を説明されるが詳細までは知らされない。また誓約書もあり「放送前に内容を他言しないこと」「放送後3ヶ月は他のクイズ番組に出演しないこと」などの内容が書かれていた。
- スタッフはほとんど挑戦者と交流を持たないとされている。情が移ったり、クイズの情報が漏れたりしないため。しかしながらスタッフがホテルのゴミ箱に捨てたデータから機内ペーパーテストの順位がもれた時もあった。
- スタッフに支給される1日の食費手当は当時のアメリカの食費1食分くらいだったが、司会の福留は「1年かかって覚える仕事を1ヶ月で覚えるから、志願するスタッフも多い」と挑戦者に話をしていた。
- 同番組におけるホテルや飛行機等の手配など、旅行部分のコーディネート業務は、番組開始から終了まで一貫して近畿日本ツーリストが担当していた。そのため、ウルトラクイズ全盛期には「ウルトラクイズの仕事がしたい」という理由で同社を志望し実際に入社する学生が多数存在したという。
- 挑戦者が10名前後から「食事会」と称して、司会の福留・福澤、主要スタッフ(荻原など)と挑戦者の夕食会が設けられ、そこで初めて福留・福澤と挑戦者が一緒に食事をし、個人的な話もできた。
- 司会の福留はロケ中(撮影中)は明朗活発に振舞っていたが、カメラの回っていない時は冷静で、挑戦者に対し「お前、いいチャンスだから力を発揮しろよ」とプロデューサーのごとく冷静なアドバイスをしていた。
- 第6回で司会の福留が体調を崩し病院に運ばれる(農薬のついたブドウを皮ごと食べたためとのこと)が、1日遅れの日程でロケに復帰。しかし次のチェックポイントでは顔を一切映さず(顔が腫れていたため)、後姿と声だけで番組を進行した。それがきっかけとなり、次の回からは万が一福留が司会不能になった場合に備え、予備のアナウンサーを同行させるようになる。
- 第7回では挑戦者の一人が収録中に急病にかかりドクターストップ。日本へ強制帰国させられた。
- タレントの大桃美代子が芸能界デビューする前、同番組に挑戦者として参加した事がある。大桃は大学入学時に、ウルトラクイズに出られると言われクイズ研究会へ入部した。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: クイズ番組 | クイズゲーム | 日本テレビ放送網系番組